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第二章 敗戦、そして占領の時代(昭和二十年から二十六年)④
2015-09-01
暴風の中の終戦奉告祭
昭和二十年九月二日にはミズーリ号上で降伏文書の調印式がおこなはれ、翌三日には宮中の賢所・皇霊殿・神殿において戦争終結御親告の儀がとりおこなはれた。宮崎神宮での供進使を迎へて九月十七日、午前十時より終戦奉告祭をおこなふことになったが、丁度この祭典に間に合はせるやうに宮崎地方には再び大型の台風が襲ってきて、祭典は吹き荒れる嵐の中での祭典といふ、未だかつて経験したこともないものとなった。供進使として谷口知事が参向、激しい暴風雨の中を参進するのだが冠は飛び、衣服はめくれ、進まうにも前進できないほどの風。這ふやうにして参進し、やうやく着座しての祭典中にも風雨はいっこうに衰へず、祭員はじめ参列者一同、斜め構えて風にたへ、所定の座から吹き飛ばされずに着座してゐるのがやっとのありさま。台風はこの祭典の前後神苑を荒れ狂ひ、神苑内の倒木は数知れず、正面および東西両参道はうち重なる倒木により閉鎖されてしまった。また建物にも被害があり、表枡型の守衛詰所が倒壊、授与所が半壊、社務所および幣殿廂銅板が剥離したが、祭典が何とか終了したのはせめてもの幸ひであった。なほ、この祭典には萱嶋宮崎市長、高橋参謀長、長谷川師範学校長、猪俣区長、内藤隊長、濱田農会部長、押川区長が参列、翌日からの暴風雨被害復旧には内藤隊長以下の部隊の面々が奉仕にきてくれたが、思へばこれが、帝国陸軍の人々の協力をいただいた最後となった。
米軍来たる
つひに宮崎にも米軍がやってきた。敗戦いらい東京などでは、相次いで激しい変革の嵐が吹き荒れてゐたのであらうが、宮崎にもつひに占領軍がやってきたといふことは、県民にとってはやはりショックだった。十月十七日、宮崎県庁内に米軍宮崎民政部(初代民政部長官はマスマン海軍少佐)が発足、宮崎地方の最高権力者として監視の目を光らせることになった。
時が変ると人の心も変る。荒れた境内を抱へ、その復旧をしたいとする神職にとって、敗戦いらい、とくに秋風が立ちはじめると共に、境内倒木の無断搬出や無断盗伐の多発といふ難問までがかぶさってくるやうになる。しかしいままでのやうに、盗伐防止の措置に協力を要請しようにも、社会の意識は落ち込んでをり、どのやうな手をうって良いかなかなか抜本的な方策もたたない。そんな中で十月二十六日には、占領下におけるはじめての例祭がおこなはれた。宮崎神宮の例祭は御神幸祭を伴ふものだが、本年は石丸宮崎県内政部長が幣帛供進使として参向、午前十時より厳かに祭典は実施されたものの、御神幸祭は中止となった。そしてその代りに翌二十七日は境内で、神幸祭内祭が斎行され、神賑行事が奉納された。
米軍が来て占領下に入ったが、ときどき米軍が参道の入口に立って参拝者に何やら話しかける(その内容が何であったか、当時の人々は参拝の妨害だったと言ふ人も多いが、英語を知らない参拝者がたださううけとっただけで、全く意味が違ってゐたのかもしれない)事件などがあったり、祭りを見に来ることがある程度でまだ宮崎神宮の職員には、これからどんな変化が出て来るかなどは、予想出来ない時であった。ただ、神宮に余り好感を持ってゐないといふことだけは態度の端々に感ぜられる。
そのやうな中、宮崎神宮では十一月二十一日には、児原稲荷神社に疎開中の御神宝、調度品の大半を再び神社へお迎へし、二十三日には河野県物資課長を幣帛供進使に迎へて新嘗祭をおこなった。敗戦直後のことでもあり、県下各農業会からの献穀は殆どなかったが、宮崎市吉村町浮の城実行組合に設置された神饌田よりの献穀があった(同献穀田は市内四十九社にも献穀した)。十一月二十六日には大日本神祇会宮崎県支部大麻頒布奉告祭もおこなはれた。宮崎神宮では米軍の動きに注意はしてゐたものの、どのやうな措置に出てくるか皆目わからなかった。そのため十一月二十七日には境内四ヶ所に英文の看板を掲げて、みだりに境内に入ってパトロールをしたり、あるいは勝手な行動する米軍人に対して神域に対する敬意を求めるなどをしてゐる。
宮崎神宮
〒880-0053
宮崎県宮崎市神宮2丁目4-1
TEL.0985-27-4004
FAX.0985-27-4030
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