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第二章 敗戦、そして占領の時代(昭和二十年から二十六年)⑥
2015-10-21
「八紘一宇」の額盗み事件
神道指令に基づいての行政命令は年が変っても相次いで発出されてゐた。一月十二日には八紘の基柱正面の「八紘一宇」の題字と武神像および昇降口の由来記が取りのぞかれることになった。このニュースはある筋より事前に洩れ、宮崎神宮関係者の知るところとなった。彼らは何としかしてそれを阻止したいとして協議、撤去が決められてゐた前夜、ひそかに秩父宮殿下の御染筆になる「八紘一宇」の額だけを外し去り、宮崎神宮内の某所に隠した。武神像および由来記はとても神職の手に負へない。止むなく放置して翌日、撤去され破壊されたが、このやうにしてその精神の中枢とされた額だけは、守りつづけられて今日にいたってゐる。
宗教法人への移行をめぐって
神道指令によって神祇院は廃止せられ、神社は国の手から離れた法人とならねば存続が許されない。そこで神社界では東京に神社本庁(宗教法人)をつくり、各県に神社庁を置いて、その包括化に全国の神社を宗教法人にするとの方針をたてた。宮崎神宮でもこの大改革に向けて、その準備に追はれる毎日であった。公共団体と神社との関係を断つとの方針は、宮崎市がおこなってきた宮崎神宮祭祀協賛会へも向けられる当神宮の内部にも問題を抱へてゐた。協賛会は一月十九日付をもって市の手を離れよとのことになった。このため、昭和二十一年の一月十七日には同会をどんな形をもって今後維持していくかなどの会議も持たれてゐた。
さらに宮崎神宮としてはこれら自らの衣替へ-存続のための準備とともに、県神社庁の設立を図ることもやらねばならぬ立場にあった。二月二日には神祇院が廃止され、翌三日には新たに神社本庁が発足することが決定した。この動きに宮崎神宮自らを合はせ、県内多数の神社を合はせていくことが何よりも必要な秋である。そのためには何としてでも早急に宮崎県神社庁を発足させねばならない。これは宮崎県神祇会支部を引受け県内神社をまとめねばならない立場にあった宮崎神宮としては当然おこなはなければならない準備工作であった。その結果、やうやく三月七日、宮崎神宮社務所の貴賓室で第一回宮崎県神社庁協議員会が開催された。協議員会ではいままで、この神社庁設立に努力を重ねてきた片岡宮崎神宮宮司を一致して庁長に選任、神社庁も同十九日付でやうやく設立をみることが出来たのだが、この協議員会には、進駐軍憲兵少尉が臨席し、会議の一部始終を見守ってゐるといふ、占領時代ならではの光景であった。なほ、宮崎神宮は神社庁が三月十九日付で設立されたのをみて、同二十日に正式に神社本庁包括化の宗教法人となった。
このやうな神社庁設立への準備を進める一方で、宮崎神宮では神社の今後の運営をどのやうにするかと協議するために、宮崎神宮評議員会を開催した。出席したのは宮司、禰宜のほか日高三郎、日高重孝、冨永冨平、有馬美利、猪股睦蔵、野井憲樹らの各評議員たち。議題は①評議員会規則一部改正ニ関スル件②宮崎神宮規則承認届出ニ関スル件③神宮、維持運営ニ関スル具体的措置決定ノ件④崇敬者組織ニ関スル具体的案決定ノ件⑤養正講社ノ件などで、これにより来るべき宗教法人「宮崎神宮」時代への準備が一応、滞りなく終了した。
 
続く・・・
 
 
八紘一宇の塔
宮崎神宮
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宮崎県宮崎市神宮2丁目4-1
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