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第二章 敗戦、そして占領の時代(昭和二十年から二十六年)⑦
2015-11-18
淋しかった当時の御社頭
この年四月三日には例年通り神武天皇祭並遙拝式が斎行された。祭典は例年通りの祭式をもっておこなはれたが参拝者もなく、恒例であった流鏑馬の神事は時局柄中止となった。
そんな当時の宮崎神宮神職にとって、社会の風当りはなかなか厳しかった。
五月一日のメーデーには、宮崎でも宮崎神宮第二鳥居枡型に二,五六〇人が集って気勢をあげるやうな時代がはじまってゐた。終戦いらい、何もかもがひっくり返ったやうな社会情勢の中にあって、占領軍が明らかに敵視してゐると思はれる神宮を運営していくことは何事にもよらず苦しいものであった。がその中でも、以下に述べる境内地返還の要求なども時代の変化をつよく反映してをり、神宮にとっては、大変辛い選択を迫るものであったといへよう。この二千六百年といふ、当時としては触れたくない事件に基いての境内返還の要求は、神宮として、とくに対処がむづかしい課題でもあった。

事件は当時の三月二十一日付の西日本新聞に「神社境内を耕地へ、宮崎神宮町が要請」との見出しで次のやうに記されてゐる。
神道の改革で神社の境内を耕地に開放せよとの陳情が県に舞ひ込んだ。
差出人は宮崎神宮町実行組合三十二名で紀元二千六百年事業により宮崎神宮に耕地をとられた上、例の農地調整法実施や食糧難の余波で地主に小作地を取り上げられるものが出来、現在、同組合の耕地面積は半減、僅かに二十四町四反歩しかないため耕作地を全然なくして路頭に迷ふものも数軒出て来た。それで神社、仏閣境内を食糧増産地に開放するやう勧奨されてゐる時代だからこの際同神宮西神苑ならびに東神苑約五町歩を組合員に提供してもらひ、さすれば仮に甘藷を作付したら三万貫からの増産を約束するといふものであり、県当局では目下考慮中。
これは神宮町数名の農家から、境内の西神苑および東神苑の開墾を知事宛に陳情したものを記事にされたものだが、当時の反神道的な風潮をひじょうにつよく反映してゐることがうかがへる。しかもこの土地は未だ国有財産となってゐる時であった。神社はこの申し出に大変苦労したが、関係各位の協力によって、この地域は開墾されずに何とか境内地として守られることになった。
こんな同胞たちの意識の変化、それに後に触れる占領軍の厳しい圧力のもとに日夜孤軍奮闘してゐた宮崎神宮職員にとってのこの年の唯一の救ひとも言へるものは、やうやく九州各県に神社庁が設立され、その連絡会が六月に宮崎県で開かれることになったことであった。そのためにCICとの打合へ等もおこなはれ、六月六日には鵜戸神宮で九州各県神社庁連絡協議会が開かれた。同会には東京より佐佐木侯爵、宮川神社本庁事務総長も出席、九州各県より代表者が多数あつまったが、翌七日には九州各県神社庁揃っての宮崎神宮正式参拝もあり、さらに同日午後一時より宮崎神宮貴賓室で二十六人の代表参加のもと神社庁長会等が開かれたことだった。この時だけは同じ境遇にある神職同志が胸襟をひらき互ひに励まし合ひ今後の活躍を誓ひ合ったのであった。
 
続く・・・
 
 
宮崎神宮境内航空写真(昭和初期のものと思われる)
宮﨑神宮
〒880-0053
宮崎県宮崎市神宮2丁目4-1
TEL.0985-27-4004
FAX.0985-27-4030
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