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第二章 敗戦、そして占領の時代(昭和二十年から二十六年)⑧
2016-02-28
無法な進駐軍の行動
神道指令が発出されていらい、それまでは慎重で、殆ど神社に対して何ら感心すら見せないやうにしてゐた米軍部は、神宮・神社に対して、猛烈な干渉と圧迫をするやうになってきた。さきの神社庁設立の発起人会などに、強引に割込んで来た米憲兵の行動も異常なら、全国の各神社にとって、いまでも忘れられない苦い思ひ出となってゐるものに、神社に対する度の過ぎた参拝妨害および干渉の事実と、軍国主義防止の為の刀剣刈りに名を藉りた社宝略奪の行為があげられるだらう。
宮崎神宮でも一月十八日、それまでは児原稲荷神社に疎開させてゐた刀剣類を神宮へ引きとったが、一月十九日、進駐軍の指令にもとづいてその中の神宮宝物及貴重品、刀剣並に銃器類七十五点を提出したが、とくにその中の刀剣七点については用ずみ次第至急返却願を同時に提出した。しかし、そのやうな懇願は一切無視され、由緒ある御神宝の太刀は、略奪同様に盗みとられたままである。
また、進駐軍の神社冒?の事実も、神社に忘れられない傷痕を残した。宮崎神宮には一月二十三日長崎海兵隊のジェーブラオワー中佐が部下とともに参拝、二十六日には進駐軍鹿児島民政部長スカート少佐及びグール大尉、二月十五日、三月三日には宮崎民政部長マスマン少佐等が訪ねて来て、通訳の説明を聞きながら表敬、徴古館の見学などをしていったが、このやうな将校たちとは違ひ、一部兵士や憲兵の中には非常識にして不敬な者も多く、たびたびの不祥事を引き起すので神宮では境内に「進駐軍立入禁止」の制札を掲げ、対抗措置に出ざるを得ない立場にあった。もちろんしかし相手は絶対権力を持った戦勝国の兵士であり、こちらは敗戦国の、しかももっとも弱体化されべき対象とされる神社のこと、さらに進駐軍からは度重なる境内使用の緩和申請なども出されてをり、神社としては苦しい戦ひをしなければならなかった。
宮崎神宮では四月十九日に民政部の緩和申請をうけて境内を開放することとした。しかし今後、ぜひとも進駐軍の神社への非礼や参拝への妨害などは避けて貰はねばならない。そこで四月二十一日には同神宮「藤まつり」に進駐軍を招待、舞踊なども披露してマスマン民政部長官以下に大いに神社を理解して貰ふことに努力した。長官以下は大いに喜んで帰り、友好的な雰囲気は増進したかに見えた。
しかし、いくらこのやうな作戦をとっても宮崎神宮が神武天皇をお祀りする神社であるかぎり、占領軍が度々調査に来るであらうことぐらゐは神宮としても覚悟の上であった。たとへば四月二十七日には進駐軍情報部が神武養正講社の内容調査に来たり、五月一日に海兵隊員二人が境内調査に来たりしたのも、そのやうな意味では神社としてとかく問題にすべき程の事ではなかった。
しかし、六月十八日にやって来た進駐軍による神宮尊厳冒?の事件などは、米進駐軍による不法・無法の行為として、永遠に同宮にとっては忘れ去ることのできない由々しい事件であった。ここには当時の社務日誌の写しのみを掲げるが、その行間に、神宮の尊厳を護持しようと果し得なかった関係者の胸の内を読みとっていただきたい。
進駐軍憲兵隊午前九時来宮、渡部職員(案内ニテ)徴古館、石毛職員御案内ニテ幣殿、神饌所、御料屋、旧社務所、旧徴古館、社務所、巡視セリ、然ル後御神殿御扉開扉ヲ要求シタルモ絶対尊厳ノヶ所ニテミダリニ御開扉相成難キ旨申セル所、上司ノ命ナル由、重ネテ申セシモ応ザリシ為、一旦引返シ其後再ビ来宮、摂社皇宮神社ヘ案内ノ命ニ依リ、佐藤美春皇宮様ニ急行視察セリ、然ル所午後三時来宮、再ビ御神殿内検分ヲ強要、渡辺禰宜宮司不在ノ為、指揮命令相仰グコト不可能ニ付、時日延引方申シ進メタレド命ト申シテ許サズ、依ツテ別紙祭儀立案(後刻起案至急ノ為立案ノ猶豫ナシ)ノ通リヲ以テ、御開扉ノ上検分ヲ許容シタリ、尊厳ヲ冒?スル是ヨリ大ナルハナク遺憾恐懼ニ不堪、謹ミテ神明ニ慚愧深謝シ奉ルノミ
六月にはまた、進駐軍による不祥事がおこってゐる。これも前記事件の翌日の社務日誌だが、次のやうに記されてゐる。
午前十時頃表参道ヨリジープ一台進入、東参道ニ入ルヲ認メ、渡部早速後ヲ付ケタル処、徴古館裏ニテ停車、表玄関ヨリ無断入館シ検索ノ模様ニテ、走付タル処武装ノ米兵三、二世ラシキ通訳随行ト四名地下道ヨリ昇リ各部屋ヲ検分スルニ遭、「何処カラ何シニ来タカ」ト問ヒシモ、「隊カラ来タ」と答ヘシノミニテ直チニ退出、再ビ表参道ヨリ退散セリ、後巡視セルモ別ニ異状ヲ認メズ、不快コノ上ナシ
 
続く・・・
 
 
昭和21年6月18日 宮崎神宮日誌より
宮﨑神宮
〒880-0053
宮崎県宮崎市神宮2丁目4-1
TEL.0985-27-4004
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