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終戦69年
2014-08-15
本日で大東亜戦争終結六十九年。
全国各地で戦没者追悼の式典等が開かれます。
全国各地で戦没者追悼の式典等が開かれます。
宮崎県護国神社におきましても、午前十時より多くのご遺族、関係者参列のもと
終戦記念奉告祭が斎行されます。
終戦記念奉告祭が斎行されます。
ところで宮崎県護国神社の創建について、ご存知でしょうか???
宮崎県においては、従来国家の危急に殉ぜられた英霊を県民挙って祭祀する
護国神社がありませんでしたが、大東亜戦争勃発により戦没者の数は著しく
増加しました。
そこで当時の宮崎県知事の職にあった長船克己をはじめ五十八名が代表として、
昭和十八年四月二十三日内務大臣の許可を得て創建に着手しました。
宮崎神宮社報「美あかし」~昭和十九年一月一日発行より~
宮崎縣護國神? 整地工事進む 昭和十八年十一月二十日淸祓式を嚴修
宮崎縣護國神?は神武天皇の皇居址と傳ふる皇宮屋に近き高臺を選び建設されることゝとなり曩に創建奉賛會が設立せられ、各方面より奉賛金も續々として奉納され關係者をして感激せしめつゝある?態であるので、奉賛會では愈々工事に着手することゝなり、去る十一月二十日午前十時より奉賛會會長西廣知事を始め、關係者多數參列のもとに、入江宮崎神宮禰宜が齋主となり、護國神?敷地淸祓式竝に工事着手奉告祭を盛大に執行した。
かくて十一月二十一日より整地工事に着手、傷痍軍人の勤勞奉仕を始めとして、宮崎縣廳關係者、縣下の各種團體、學校生徒兒童等が次々につめかけ熱心な奉仕が續けられてゐる。就中門川町の遺族未亡人多數がはるばるやって來て、土にまみれつつ眞劍なる奉仕を捧げられたりたまたま日曜日で外出を許可された兵隊さんが、終日亡くなられた戰友の爲にと一所懸命の奉仕を續けるなど、様々の感激美談が繰り展げられてゐる有様で、この?況ならば豫定よりも早く整地工事の終了を観ることゝ關係者はよろこんでゐる。
宮崎縣護國神? 整地工事進む 昭和十八年十一月二十日淸祓式を嚴修
宮崎縣護國神?は神武天皇の皇居址と傳ふる皇宮屋に近き高臺を選び建設されることゝとなり曩に創建奉賛會が設立せられ、各方面より奉賛金も續々として奉納され關係者をして感激せしめつゝある?態であるので、奉賛會では愈々工事に着手することゝなり、去る十一月二十日午前十時より奉賛會會長西廣知事を始め、關係者多數參列のもとに、入江宮崎神宮禰宜が齋主となり、護國神?敷地淸祓式竝に工事着手奉告祭を盛大に執行した。
かくて十一月二十一日より整地工事に着手、傷痍軍人の勤勞奉仕を始めとして、宮崎縣廳關係者、縣下の各種團體、學校生徒兒童等が次々につめかけ熱心な奉仕が續けられてゐる。就中門川町の遺族未亡人多數がはるばるやって來て、土にまみれつつ眞劍なる奉仕を捧げられたりたまたま日曜日で外出を許可された兵隊さんが、終日亡くなられた戰友の爲にと一所懸命の奉仕を續けるなど、様々の感激美談が繰り展げられてゐる有様で、この?況ならば豫定よりも早く整地工事の終了を観ることゝ關係者はよろこんでゐる。
現在宮崎県護国神社は当宮境内に鎮座されますが、文章にもあるように
”神武天皇の皇居址と傳ふる皇宮屋に近き高臺”。
現在の宮崎市立大宮中学校の地に建設される運びとなっていました。
”神武天皇の皇居址と傳ふる皇宮屋に近き高臺”。
現在の宮崎市立大宮中学校の地に建設される運びとなっていました。
しかしながら建設途上の昭和二十年八月十五日の終戦を迎え、日本が連合国軍の
管理下に置かれると共に建設の放棄をを余儀なくされました。
管理下に置かれると共に建設の放棄をを余儀なくされました。
その後、再び護国神社建立の要望が起こったので、昭和二十八年四月宮崎県
護国神社政権奉賛会を組織して県民の浄財をつのり神社の再建に着手することと
護国神社政権奉賛会を組織して県民の浄財をつのり神社の再建に着手することと
なりました。
そして、
昭和三十年三月十日 木曜日 晴れ 午前十時 竣工祭
午後八時 鎮座祭
そして、
昭和三十年三月十日 木曜日 晴れ 午前十時 竣工祭
午後八時 鎮座祭
~昭和三十年宮崎神宮日誌より~
昭和三十年三月十一日 金曜日 晴れ
一、護国神社鎮座奉祝祭 午前十時
宮司以下奉仕(齋服)
伶人(笛、篳篥二管立、笙、鞨鼓、太鼓)七人外ニ琴
縣神社庁支部長九名参列(齋服)
奉賛会総裁田中縣知事、奉賛会長日髙県議会議長、宮崎縣遺族会長外
市町村関係者、遺族壱萬伍阡名参列 社前廣場を埋む、歡喜に沸く
一、祭典終了後、宮司、知事、縣議長、縣遺族会長の挨拶あり、一同隨喜の涙をながす
一、神職退下後遺族に本殿石階下まで参入参拜を許す、遺族の感激一入なり
一、午後西神苑にて、相撲、剣道、弓道の奉納試合あり、風もなく照りつけもせず
暖き春日和に恵まれて、神苑は午後四時頃まで賑ふ
昭和三十年三月十一日 金曜日 晴れ
一、護国神社鎮座奉祝祭 午前十時
宮司以下奉仕(齋服)
伶人(笛、篳篥二管立、笙、鞨鼓、太鼓)七人外ニ琴
縣神社庁支部長九名参列(齋服)
奉賛会総裁田中縣知事、奉賛会長日髙県議会議長、宮崎縣遺族会長外
市町村関係者、遺族壱萬伍阡名参列 社前廣場を埋む、歡喜に沸く
一、祭典終了後、宮司、知事、縣議長、縣遺族会長の挨拶あり、一同隨喜の涙をながす
一、神職退下後遺族に本殿石階下まで参入参拜を許す、遺族の感激一入なり
一、午後西神苑にて、相撲、剣道、弓道の奉納試合あり、風もなく照りつけもせず
暖き春日和に恵まれて、神苑は午後四時頃まで賑ふ
驚くことに参列者”壱萬伍阡名”
護国神社の創建が、いかに県民の切なる願いであったことがうかがえます。
当時の宮崎神宮片岡宮司は
「戦没された人々は、宮崎神宮をはじめ、それぞれの産土神社に武運長久を祈願して出征されたのであり、その神霊をお祀りする護国神社は、県下六百余の神社を代表して宮崎神宮が宮司以下全員無報酬により護持する。大祭には県下の全神職が奉仕する精神を以て神社庁支部長も奉仕する。時代の変革あるも宮崎神宮の現存する限り護国神社の祭祀を欠かさないようにする。」
との方針をもって、専属の職員がおかれる昭和四十七年四月まで宮崎神宮と
一体の運営がなされていました。
「戦没された人々は、宮崎神宮をはじめ、それぞれの産土神社に武運長久を祈願して出征されたのであり、その神霊をお祀りする護国神社は、県下六百余の神社を代表して宮崎神宮が宮司以下全員無報酬により護持する。大祭には県下の全神職が奉仕する精神を以て神社庁支部長も奉仕する。時代の変革あるも宮崎神宮の現存する限り護国神社の祭祀を欠かさないようにする。」
との方針をもって、専属の職員がおかれる昭和四十七年四月まで宮崎神宮と
一体の運営がなされていました。
今を生きる私達は、当時の人々の思いを決して忘れてはなりません。
本日は如何なる形でもよろしいので、多くの戦没者の御霊に対して静かに
祈りを捧げていただきたく存じます。
香淳皇后御歌
やすらかに ねむれとぞおもふ 君のため いのちささげし ますらをのとも
やすらかに ねむれとぞおもふ 君のため いのちささげし ますらをのとも