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宮崎神宮の由来

宮崎神宮の創建

社伝によれば、本宮は神武天皇の孫にあたる健磐龍命(たけいわたつのみこと)(熊本・阿蘇神社ご祭神)が九州の長官に就任した際、祖父のご遺徳たたえるために鎮祭したのが始まりと伝えられています。下って第十代崇神天皇、第十二代景行(けいこう)天皇の熊襲(くまそ)ご征討の際に社殿のご造営があり、ついで第十五代応神(おうじん)天皇の御代、日向の国造が修造鎮祭(しゅうぞうちんさい)せられた旨が旧記に伝えられています。

『職原抄(しょくげんしょう)』

神武天皇即位之初 継神代之蹤都日向國宮崎宮云々

『大和國風土記』

橿原郷土地中肥、民用不少、是則神日本磐余彦天皇、自 日向國宮崎 始メテ皇居之地也云々

『日向風土記』

宮崎郡土地上肥云々、古老傳云、此地自皇孫降臨至神日本磐余彦天皇 之宮所也、故云 宮崎 云々

武将の寄進(きしん)

明治以前は、日向国を治めた武将の崇敬も厚く、寄進などの記録が残っています。

建久年間(1190~1199)
地頭土持太郎信綱宮殿をご造営してご遷宮奉仕。
文明5年(1473)
伊東祐国蓮ヶ池、下北方の領地より社領奉献。
永禄5年(1562)
伊東義祐が下北方及び江平の地を新地に献進。
天正5年(1577)
島津義久米穀及び御祓料を献進。
寛永21年(1644)
領主・有馬康純社殿をご造営。
元禄2年(1689)
領主・有馬永純が御供用として新地を供進。
文化10年(1812)
内藤亀之進ご社殿をご造営。
天保10年(1839)
内藤政義社殿修理。

ご称号(しょうごう)と旧社格(しゃかく)

当神宮が全国的な崇敬神社に成長したのは明治以降です。武家を中心とする封建社会は行き詰まり、天皇を国家の中心に据えた近代国家への脱却を図った明治維新は、そのスローガンに「諸事神武創業ノ始二基ツキ」の精神を掲げるなど、この国の原点を再確認することから始められました。神武天皇をお祀りした古社である当神宮は一躍脚光を浴びる事となり、明治以降は次の様な変遷をたどりました。
明治前
神武天皇宮、神武天皇社と呼ばれる
明治6年5月
県社に列せられ宮崎神社と改称
明治8年8月
国幣中社に昇格
明治11年5月
宮崎宮と改称
明治18年4月
官幣大社に昇格
大正2年7月
宮崎神宮と改称
昭和21年2月
神社制度の変革により社格が廃止される
 「神武天皇宮」鳥居の扁額
「宮崎宮」神苑石碑
明治22年2月と記されている

二度にわたる拡張

明治40年の拡張

明治31年二条基弘(にじょうもとひろ)公爵、島津忠亮(しまづただあきら)伯爵、高木兼寛(たかきかねひろ)男爵らが中心となって「神武天皇御降誕大祭会」が組織されました。宮崎神宮を社格に見合った規模の大社とすべく、奉賛会が組織され全国規模での募財活動が展開されました。皇室からのご下賜(かし)金や政府の改築費(7年間)なども支出され、明治40年9月に竣工となりました。

高木兼寛(たかき かねひろ)

高木は、嘉永2年(1849)、現在の宮崎市高岡町で生まれました。明治2年開成所洋学局に入学し英語と西洋医学を学び、当時軍隊内に流行していた脚気の撲滅に成功しました。「神武天皇大祭会」の幹事長に就任し全国から募財を集め、明治40年の竣工奉告祭の際には、ご親拝になった皇太子殿下(大正天皇)の拝謁を仰せつかり、白羽二重一匹を賜りました。
伊東忠太(いとう ちゅうた) ご社殿の特徴は、樹齢百年以上の地元の狭野杉を用いている点です。設計は、東洋の古建築を研究し、その学問的体系を確立した東京帝国大学名誉教授であった伊東忠太です。伊東は、明治神宮、 國神社神門などの設計も手がけています。 
写真:西からご本殿を臨む(明治40年)

皇紀二千六百年(昭和15年)の拡張

昭和15年は神武天皇ご即位後二千六百年の佳節にあたり、肇国の歴史を偲び寿ぐために、紀元二千六百年奉祝会(総裁・秩父宮雍仁親王(ちちぶのみややすひとしんのう)、副総裁・近衛文麿(このえふみまろ)、会長・徳川家達(とくがわいえさと))が設立されました。昭和13年7月の総会において、当神宮は橿原神宮についで第二位にランクされ、境内地の拡張工事や徴古館の改築など、県内外の祖国振興隊の勤労奉仕によって進められました。昭和15年11月25日、高松宮宣仁親王殿下(たかまつのみやのぶひとしんのうでんか)のご台臨を仰いで宮崎神宮境域拡張工事竣工奉献祭が斎行され、ようやくにして社格に見合った境内を得て、面目を施すこととなりました。
写真:境内拡張工事に従事する祖国振興隊(昭和14年頃)

二の鳥居付近に掲げられた幟

八紘之基柱(あめつちのもとはしら)(平和の塔、八紘一宇の塔)

神宮の北方2キロの丘陵にあり、紀元2600年(昭和15年)を奉祝して宮崎県が建築したもの。世界中から石が集められ、多くの奉仕者が携わった一大事業でした。塔は御幣の形を成し、「八紘一宇」の文字は秩父宮雍仁親王殿下のご親筆です。設計は大分県出身の彫刻家 日名子実三です。
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