神武さん参り
神武会
神武会とは?
神武会は神武天皇にゆかりのある宮﨑神宮、狭野神社、都農神社で、ご東遷記念日にあたる平成24年10月5日に発足しました。
当会ではご神徳を発揚すべく、神武天皇御東遷二千六百年記念事業(昭和9年)、紀元二千六百年記念事業(昭和15年)で神武天皇の御聖蹟として顕彰された地であるうちの御降誕の地、御東遷にゆかりのある神社を紹介しています。パンフレットとあわせてご朱印帳を作成いたしましたので、ご参拝の折にぜひ授与されて下さい
都農神社(つのじんじゃ)
創建されたのは御即位6年前の神武天皇が宮崎の宮を発し東遷の折、此の地に立ち寄り、国土平安、海上平穏、武運長久を祈念し御祭神を鎮祭された事と伝えられる。
旧記によれば、日向国の第一の大社であったが、天正年間の島津・大友の争乱の際、大友氏の兵火により社殿・宝物・古文書等全てを焼失したものの、御神体は尾鈴山麓の神社に避難され難を逃れた。争乱後は長年社殿の再興も無く小さな祠があるのみであった。元禄5年に秋月藩主秋月種政が再興し、安政6年には篤志家の社殿の寄進があった。その後、社殿の老朽化に伴い平成14年に「御造営奉賛会」が設立され、平成19年7月7日に現在の社殿が竣成されたのである。
旧記によれば、日向国の第一の大社であったが、天正年間の島津・大友の争乱の際、大友氏の兵火により社殿・宝物・古文書等全てを焼失したものの、御神体は尾鈴山麓の神社に避難され難を逃れた。争乱後は長年社殿の再興も無く小さな祠があるのみであった。元禄5年に秋月藩主秋月種政が再興し、安政6年には篤志家の社殿の寄進があった。その後、社殿の老朽化に伴い平成14年に「御造営奉賛会」が設立され、平成19年7月7日に現在の社殿が竣成されたのである。
ホームページURL http://www1.bbiq.jp/tunojinjya/
電話番号 (0983)25-3256
FAX番号 (0983)25-0617
郵便番号 889-1201
住所 児湯郡都農町大字川北13294番地
御祭神 大己貴命(おおなむちのみこと) 別名:大国主命(おおくにぬしのみこと)
駐車場 有り
最寄ICからのアクセス 東九州道高鍋ICより国道10号線を北進訳10㎞
最寄駅からのアクセス 日豊本線都農駅より徒歩約25分
狭野神社
社伝によれば、人皇第五代・孝昭天皇の御代に神武天皇御降誕の地に御創建されたのが当社の創祀という。当社より西方1キロの霊跡に末社皇子原神社が鎮座し産場石と呼称される神石が奉齋されている。ご祭神御生誕の際に産湯を御取りになられたと伝承され今猶安き出産を齎して戴けると伝えられる。また霊峰高千穂の峰麓周辺に皇子川原、祓川、血捨ノ木、宮ノ宇都、鳥居原等の神武生誕にまつわる地名が残っており御祭神のご生業を物語っている。神武天皇は御齢15才を迎える迄、此の地で天下広く統治すべく天壌無窮の御心を培われ御東征後、彼の橿原の宮居にて初代の天皇としてご即位なされた。
当社は高原町の南西部に位置し霧島連峰の麓に鎮座する為幾多の火山噴火の災禍に見舞われている。御生誕より数えて第五十代、桓武天皇(延暦7年・788年)7月の、高千穂霧島嶽噴火以後幾度も難に遭いつつ、文暦元年(1234年)12月28日の噴火においては霧島山烈火の如く鳴動し熱石を降らし社殿等を悉く焼亡に至らしめ高原町西麓の地に仮殿を設け遷奉がなされた。霧島山の噴火も治まった慶長15年(1610年)には、新たに社殿を造営し狭野の旧跡に還御した。記憶に新しい処では、平成23年1月26日、霧島連峰新燃岳が再三に亙り噴火し、小林市霧島岑神社に暫し遷御する。旧社領地は東西二千間・南北一千間に迄及ぶとされ、歴代の薩摩藩主島津当家より尊崇篤く社殿の寄進等も度々行われた。文禄年間、豊臣秀吉の朝鮮の役では、薩摩藩主島津義弘公出陣に際し戦勝祈願がなされ凱旋の後、慶長5年(1600年)祈願奉賽として重臣新納武蔵守忠元を遣わし、境内全般に杉を植栽した。大正13年には狭野の杉並木として国の天然記念物に指定され、現今境内に鬱蒼として聳えるのはその老杉である。明治六年県社に列し、大正4年には官幣大社宮﨑神宮の別宮に指定される。また第三十代敏達天皇の御代より別当寺を創立し、金剛仏作寺神生院の勅号を賜る。後に霧島仏華林寺神徳院と称するようになり、霧島修験道の大寺として信仰される。慶応2年廃仏毀釈により廃寺となるが、歴代の住職を中興の祖と仰ぎ神徳院墓地を創設し祀っている。高千穂峰近在に鎮座する霧島六所権現(当社・霧島神宮・霧島岑神社・霧島東神社・東霧島神社・夷守神社)の一社としても数えられている。
当社は高原町の南西部に位置し霧島連峰の麓に鎮座する為幾多の火山噴火の災禍に見舞われている。御生誕より数えて第五十代、桓武天皇(延暦7年・788年)7月の、高千穂霧島嶽噴火以後幾度も難に遭いつつ、文暦元年(1234年)12月28日の噴火においては霧島山烈火の如く鳴動し熱石を降らし社殿等を悉く焼亡に至らしめ高原町西麓の地に仮殿を設け遷奉がなされた。霧島山の噴火も治まった慶長15年(1610年)には、新たに社殿を造営し狭野の旧跡に還御した。記憶に新しい処では、平成23年1月26日、霧島連峰新燃岳が再三に亙り噴火し、小林市霧島岑神社に暫し遷御する。旧社領地は東西二千間・南北一千間に迄及ぶとされ、歴代の薩摩藩主島津当家より尊崇篤く社殿の寄進等も度々行われた。文禄年間、豊臣秀吉の朝鮮の役では、薩摩藩主島津義弘公出陣に際し戦勝祈願がなされ凱旋の後、慶長5年(1600年)祈願奉賽として重臣新納武蔵守忠元を遣わし、境内全般に杉を植栽した。大正13年には狭野の杉並木として国の天然記念物に指定され、現今境内に鬱蒼として聳えるのはその老杉である。明治六年県社に列し、大正4年には官幣大社宮﨑神宮の別宮に指定される。また第三十代敏達天皇の御代より別当寺を創立し、金剛仏作寺神生院の勅号を賜る。後に霧島仏華林寺神徳院と称するようになり、霧島修験道の大寺として信仰される。慶応2年廃仏毀釈により廃寺となるが、歴代の住職を中興の祖と仰ぎ神徳院墓地を創設し祀っている。高千穂峰近在に鎮座する霧島六所権現(当社・霧島神宮・霧島岑神社・霧島東神社・東霧島神社・夷守神社)の一社としても数えられている。
電話番号 (0984)42-1007
FAX番号 (0984)42-1007
郵便番号 889-4414
住所 宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田117
御祭神 神武天皇 (ご幼名 狭野尊)
社殿 本殿(流造)15坪 拝殿(入母屋造)21坪 外拝殿(流造)21坪
創立年月日 第五代孝昭天皇の御代
駐車場 有り
最寄ICからのアクセス 高原ICより霧島・御池方面に約4km
最寄駅からのアクセス JR高原駅よりタクシーで約5分
四皇子ヶ峯(しおうじがみね)
皇子原神社(おうじばるじんじゃ)
「皇子原」
皇子原は皇祖神武天皇のご降誕された地として顕彰されている。
ことに、神社後背の「産婆石」の付近でご生誕になられたと伝わる。それ故、当地は母君玉依姫がご祭神を出産された産屋跡とも伝わり、狭野神社の元宮の聖蹟として現在の皇子原神社を創祀している。
大正9年3月には後の昭和天皇がご参拝され、久邇宮家、秩父宮、伏見宮家、閉院宮家、高松宮家、梨本宮家、朝香宮家、三笠宮家の歴代皇族のご崇敬も篤く、昭和20年迄は国家行事として天孫降臨祭が挙行されている。
ことに、神社後背の「産婆石」の付近でご生誕になられたと伝わる。それ故、当地は母君玉依姫がご祭神を出産された産屋跡とも伝わり、狭野神社の元宮の聖蹟として現在の皇子原神社を創祀している。
大正9年3月には後の昭和天皇がご参拝され、久邇宮家、秩父宮、伏見宮家、閉院宮家、高松宮家、梨本宮家、朝香宮家、三笠宮家の歴代皇族のご崇敬も篤く、昭和20年迄は国家行事として天孫降臨祭が挙行されている。
電話番号 0984-42-1007
FAX番号 0984-42-1007
郵便番号 889-4414
住所 宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田3-251
御祭神 神武天皇(じんむてんのう)
最寄り駅からのアクセス JR高原駅より車で約15分
最寄ICからのアクセス 高原ICより約7km
御鉾神社(みほこじんじゃ)
鉾島
鉾島はご東遷の際、鉾を納められた地として顕彰されている。
神日本磐余彦命は日向より船師を率いて、ご東遷の時、此の島の口(細島港口)にうの鳥
が多く群れるをご覧になり、此の島は鳥辺島(とりべしま)かとの詔せになった。これが
今の「とべ島」である。これより進んで今の枇榔島(びろがしま)辺りにて大鯨の海中に
浮沈するをご覧になり、お持ちの鉾を以て、その鯨を突かせ給へばさながら美女に化し、
天皇に向かって申し上ぐるに我は此の辺に住める者、今子を生む間、何卒一命を助けたま
へと一心に申せば、天皇憐みて是を許し給へば始めの大鯨に化り海中に沈みたり。天皇詔
して此の島は美女が島かと号し給へり。暫くして、追風凶くなり後に舟を返して此の島に
懸らせ給ふた、その時此の地に釣する海人が小舟を浮かべて急いで返るを呼び止めになり
何に故に急ぎ返るかと問わせ給へば海人どもが申すには四時日の半ばより大魚が来るから
それが恐ろしさに返ると申せば天皇曰「それは釣する日が少ない。出漁が自由でないであろう。此の後は此の島辺に来ぬ様に致して置うとて此の鉾を島に納置した故に是を三鉾神として祭るべし」とて以前鯨に突きし鉾を此の島に建てられ此れは鉾島かと詔が有ったの
で海人どもは大いに悦び有り難い事ぢゃこれは鉾島の鉾神様ぢゃと悦び帰った。此れより海人どもは鉾島鉾島と号へた。後世何にとはなく細の字になしたるものである。
神日本磐余彦命は日向より船師を率いて、ご東遷の時、此の島の口(細島港口)にうの鳥
が多く群れるをご覧になり、此の島は鳥辺島(とりべしま)かとの詔せになった。これが
今の「とべ島」である。これより進んで今の枇榔島(びろがしま)辺りにて大鯨の海中に
浮沈するをご覧になり、お持ちの鉾を以て、その鯨を突かせ給へばさながら美女に化し、
天皇に向かって申し上ぐるに我は此の辺に住める者、今子を生む間、何卒一命を助けたま
へと一心に申せば、天皇憐みて是を許し給へば始めの大鯨に化り海中に沈みたり。天皇詔
して此の島は美女が島かと号し給へり。暫くして、追風凶くなり後に舟を返して此の島に
懸らせ給ふた、その時此の地に釣する海人が小舟を浮かべて急いで返るを呼び止めになり
何に故に急ぎ返るかと問わせ給へば海人どもが申すには四時日の半ばより大魚が来るから
それが恐ろしさに返ると申せば天皇曰「それは釣する日が少ない。出漁が自由でないであろう。此の後は此の島辺に来ぬ様に致して置うとて此の鉾を島に納置した故に是を三鉾神として祭るべし」とて以前鯨に突きし鉾を此の島に建てられ此れは鉾島かと詔が有ったの
で海人どもは大いに悦び有り難い事ぢゃこれは鉾島の鉾神様ぢゃと悦び帰った。此れより海人どもは鉾島鉾島と号へた。後世何にとはなく細の字になしたるものである。
昭和九年神武天皇紀元二千六百年の記念祭が全国に執行せられた時県下七聖地の一つとして顕彰せられ当時全国奉賛会会長故齋藤実子爵の御来町を仰ぎ盛大なる式典が挙行せられたのである。
電話番号 (0982)53-1951
郵便番号 883-0001
住所 宮崎県日向市大字細島353
御祭神 速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)
速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)
埴山姫神(はにやまひめのかみ)
社殿
創立年月日
駐車場 有り
最寄り駅からのアクセス JR日向市駅(または財光寺駅)より車で約15分
最寄ICからのアクセス 日向ICより約7km
大御神社(おおみじんじゃ)
創建の年月は詳らかではないが、当社に伝わる「神明記」その他の古文書によれば、往古・皇大御神・日向の国高千穂に皇孫瓊々杵尊を天降し給うた節、尊は当地を御通過遊ばされ、千畳敷の磐石にて、これより絶景の大海原を眺望され、皇祖天照大御神を奉祀して平安を祈念されてと伝えられ、後世、此の御殿の霊石の在りし所に一宇を建て、皇大御神を勧請し村中の鎮守と崇敬し奉ると言う。
また、神武天皇御東遷の砌、大鯨を退治された御鉾を建てられたことから、鉾島が細島に転じたと伝えられているが、天皇はこの時、伊勢ヶ浜(港)に入られ、皇大御神を奉斎する御殿(現在の大御神社)に武運長久と航海安全を御祈願されたと伝えられ、大御神社の西に横たわる櫛の山と、東に隆起する米の山(久米の山)は、神武天皇の先鋒の天櫛津大久米命の名に因むものであると言う。
その後、当社は日知屋城主伊東氏ら歴代城主はもちろん、延岡城主、幕領代官等に尊崇され、地方の民も「日向のお伊勢さま」と呼んで崇敬し、且つ親しんできたのである。
大御神社の社名は、天照皇大御神の大御をいただいて社名とした、と伝えられているが、本殿に残る天保・安政年間より大正5年までの祈願木札には天照皇大神宮と記されている。
また、神武天皇御東遷の砌、大鯨を退治された御鉾を建てられたことから、鉾島が細島に転じたと伝えられているが、天皇はこの時、伊勢ヶ浜(港)に入られ、皇大御神を奉斎する御殿(現在の大御神社)に武運長久と航海安全を御祈願されたと伝えられ、大御神社の西に横たわる櫛の山と、東に隆起する米の山(久米の山)は、神武天皇の先鋒の天櫛津大久米命の名に因むものであると言う。
その後、当社は日知屋城主伊東氏ら歴代城主はもちろん、延岡城主、幕領代官等に尊崇され、地方の民も「日向のお伊勢さま」と呼んで崇敬し、且つ親しんできたのである。
大御神社の社名は、天照皇大御神の大御をいただいて社名とした、と伝えられているが、本殿に残る天保・安政年間より大正5年までの祈願木札には天照皇大神宮と記されている。
ホームページURL http://oomijinja.jp
電話番号 (0982)52-3406
FAX番号 (0982)52-3406
郵便番号 883-0062
住所 宮崎県日向市大字日知屋1
御祭神 天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)
社殿 本殿(神明造)3坪 拝殿(神明造)12坪
創立年月日 不詳
駐車場 有り
最寄り駅からのアクセス JR日向市駅(または財光寺駅)より車で約15分
最寄ICからのアクセス 日向ICより約6km
立磐神社(たていわじんじゃ)
美々津はご東遷の際、お船出の地として顕彰されている。
立磐神社はこの時航海の安全を祈念されて、この埠頭に海上守護神である底筒男命、中筒男命、表筒男命の三柱の大神を奉斎してのにちなんで、第十二代景行天皇の御代に創祀されたと伝える。永禄の頃(1558~1570)より地頭の崇敬があり、祭礼神事行事も整い殷盛となっていた。しかし、天正6年(1578)に至り大友氏との耳川の合戦の為戦火にかかり、宝物貴重なる文献記録等烏有に帰した。
棟札によれば元和6年(1623)、寛文8年(1668)、宝永2年(1705)、享保9年(1728)、享和9年(1903)に再興されている。高鍋藩秋月氏の崇敬も厚く、貞享3年の「高鍋藩寺社帳」によれば、神領七石五斗を有していたとあり、その後も神事ある毎に寄進を受けていた。さらに境内には神武天皇御腰掛岩があり、今もご聖蹟として崇拝している。往古より立磐権現あるいは立磐大明神と称してきたが、明治初年立磐神社と改称し、同4年郷社に列せられ、同40年2月神饌幣帛料供進社に指定された。
昭和9年の神武天皇ご東遷二千六百年記念事業として、境内の拡張、社殿の修築をなし、記念碑が建立された。さらに置きのお船出の瀬戸に永久に神のみあかしを献灯する意味で、竜神バエに岩上に住居灯籠を模した灯台が設置された。
昭和17年、境内には、時の内閣総理大臣であった海軍大将米内光政の揮毫による「日本海軍発祥の地」の記念碑が建立された。またご東行巡路漕舟大行軍を挙行した。これは神武天皇ご東遷の際のご使用の船を象って新しく船を造り、「おきよ丸」と命名し、日向国の青年150名が漕舟して昭和15年4月18日美々津港を船出し、途中天皇がその昔寄港されたという由緒あるところに寄港しながら、某月28日浪速(大阪)に上陸、御楯を捧持、陸路橿原神宮に奉納した。
立磐神社はこの時航海の安全を祈念されて、この埠頭に海上守護神である底筒男命、中筒男命、表筒男命の三柱の大神を奉斎してのにちなんで、第十二代景行天皇の御代に創祀されたと伝える。永禄の頃(1558~1570)より地頭の崇敬があり、祭礼神事行事も整い殷盛となっていた。しかし、天正6年(1578)に至り大友氏との耳川の合戦の為戦火にかかり、宝物貴重なる文献記録等烏有に帰した。
棟札によれば元和6年(1623)、寛文8年(1668)、宝永2年(1705)、享保9年(1728)、享和9年(1903)に再興されている。高鍋藩秋月氏の崇敬も厚く、貞享3年の「高鍋藩寺社帳」によれば、神領七石五斗を有していたとあり、その後も神事ある毎に寄進を受けていた。さらに境内には神武天皇御腰掛岩があり、今もご聖蹟として崇拝している。往古より立磐権現あるいは立磐大明神と称してきたが、明治初年立磐神社と改称し、同4年郷社に列せられ、同40年2月神饌幣帛料供進社に指定された。
昭和9年の神武天皇ご東遷二千六百年記念事業として、境内の拡張、社殿の修築をなし、記念碑が建立された。さらに置きのお船出の瀬戸に永久に神のみあかしを献灯する意味で、竜神バエに岩上に住居灯籠を模した灯台が設置された。
昭和17年、境内には、時の内閣総理大臣であった海軍大将米内光政の揮毫による「日本海軍発祥の地」の記念碑が建立された。またご東行巡路漕舟大行軍を挙行した。これは神武天皇ご東遷の際のご使用の船を象って新しく船を造り、「おきよ丸」と命名し、日向国の青年150名が漕舟して昭和15年4月18日美々津港を船出し、途中天皇がその昔寄港されたという由緒あるところに寄港しながら、某月28日浪速(大阪)に上陸、御楯を捧持、陸路橿原神宮に奉納した。
電話番号 (0982)58-1638
FAX番号 (0982)58-1638
郵便番号 889-1111
住所 宮崎県日向市美々津3419
御祭神 底筒男命(そこつつおのみこと)
中筒男命(なかつつおのみこと)
表筒男命(うわつつおのみこと)
神武天皇(じんむてんのう)
社殿 本殿(切破風造)2.7坪 拝殿(入母屋向拝 唐破風造)23坪
創立年月日 不詳 景行天皇乙酉と伝える
駐車場 有り
最寄り駅からのアクセス JR美々津駅より車で約5分
最寄ICからのアクセス 日向ICより南へ車で約20分
湊柱神社(みなとはしらじんじゃ)
幸脇
幸脇はお船出の際、凧を揚げて風向を試みた所であり、口碑には御進発に際し軍船の修祓を斎行した所として顕彰されている。
また御滞在の間タブトキ峠に上られ御髻を櫛上げされ、遠く海路を眺められたと伝わる。
湊柱神社の創立年月日は不明であるが、高鍋藩の著した「続本藩実録」に文化元年(1804)8月8日立岩湊権現にお上(秋月藩主種徳)より銀一匁、雨乞いのお供料として奉献あった旨記載されている。両神とも水戸を司り、また水戸にあって祓除を掌る神である。
また明治39年4月「勅令第九十六号第一条ニヨリ神饌幣帛料ヲ供進スヘキ神社」として社格が村社になっている。
また御滞在の間タブトキ峠に上られ御髻を櫛上げされ、遠く海路を眺められたと伝わる。
湊柱神社の創立年月日は不明であるが、高鍋藩の著した「続本藩実録」に文化元年(1804)8月8日立岩湊権現にお上(秋月藩主種徳)より銀一匁、雨乞いのお供料として奉献あった旨記載されている。両神とも水戸を司り、また水戸にあって祓除を掌る神である。
また明治39年4月「勅令第九十六号第一条ニヨリ神饌幣帛料ヲ供進スヘキ神社」として社格が村社になっている。
電話番号 (0982)57-2323
FAX番号 (0982)57-2323
郵便番号 889-1112
住所 宮崎県日向市大字幸脇5
御祭神 速秋津彦命(はやあきつひこのみこと)
速秋津姫命(はやあきつひめのみこと)
社殿 本殿(大社造)2坪 拝殿(入母屋造)8.75坪
創立年月日 不詳
駐車場 有り
最寄り駅からのアクセス JR美々津駅より車で約10分
最寄ICからのアクセス 日向ICより美々津方面へ約9km
甘漬神社(あまつけじんじゃ)
甘漬
甘漬はご東遷の際御駐輦された所として顕彰されている。
甘漬神社はその時、みずから大神を奉斎し群臣将兵と共に武運長久と国土の平定をご祈請されたのが創祀の始めといい伝える。
ここにご滞留中、さる高貴な御方が死去され、その方を葬った古墳が神社境内の中央神木老樹うっ蒼たる内にある。当社の例祭毎に第一にこの古墳に御幣を奉上し、その後本社の祭典を執り行うことを古例としてきた。
棟札によれば、甘漬三所権現として、天文6年(1537)に再興されており、その後も、慶長2年(1597)卯月、寛永7年(1630)12月再興の記録がある。「県史蹟調査報告」によると歴代秋月氏の篤く崇敬した社で、慶長2年丁酉卯月には、秋月三左衛門種近公より神領七石五斗、営繕その他一切の寄進があった。その後も、社参、代参等度々あり、社殿の改築修理もなされた。
明治4年11月村社となり、明治40年7月、地元の愛宕神社を合祀した。
甘漬神社はその時、みずから大神を奉斎し群臣将兵と共に武運長久と国土の平定をご祈請されたのが創祀の始めといい伝える。
ここにご滞留中、さる高貴な御方が死去され、その方を葬った古墳が神社境内の中央神木老樹うっ蒼たる内にある。当社の例祭毎に第一にこの古墳に御幣を奉上し、その後本社の祭典を執り行うことを古例としてきた。
棟札によれば、甘漬三所権現として、天文6年(1537)に再興されており、その後も、慶長2年(1597)卯月、寛永7年(1630)12月再興の記録がある。「県史蹟調査報告」によると歴代秋月氏の篤く崇敬した社で、慶長2年丁酉卯月には、秋月三左衛門種近公より神領七石五斗、営繕その他一切の寄進があった。その後も、社参、代参等度々あり、社殿の改築修理もなされた。
明治4年11月村社となり、明治40年7月、地元の愛宕神社を合祀した。
電話番号 (0983)27-3244
FAX番号 (0983)27-1764
郵便番号 889-1301
住所 宮崎県児湯郡川南町大字川南11393
御祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)
社殿 本殿(流造)2坪 拝殿10坪
創立年月日 不詳
駐車場 有り
最寄り駅からのアクセス JR川南駅より車で約15分
最寄ICからのアクセス 高鍋ICより川南方面へ約14km