宮﨑神宮とは
ご祭神
かむやまといわれひこのすめらみこと
神日本磐余彦天皇(第一代・神武天皇)
相殿 鵜鷀草葺不合尊(御父君)
玉依姫命 (御母君)
相殿 鵜鷀草葺不合尊(御父君)
玉依姫命 (御母君)
ご系譜
天照大御神ー天忍穂耳尊ー彦火瓊々杵尊ー彦火火出見尊
ー鵜鷀草葺不合尊ー 神日本磐余彦天皇 ・・・今上陛下
|| (第126代)
|| (第126代)
神武天皇
神武天皇のご偉業
神武天皇ご誕生
神武天皇は初代天皇にご即位するまでは、神日本磐余彦天皇、ご幼名を狭野尊と申し上げました。天照大御神から五代目の御孫(右系図参照)にあたります。鵜鷀草葺不合尊(鵜戸神宮ご祭神)の第四皇子で、母は玉依姫命(たまよりひめ)と申します。お生まれは宮崎県西諸県郡高原町狭野(にしもろかたぐんたかはるちょうさの)と言われ、この地には狭野神社が鎮座しています。
写真:ご生誕の地に鎮座する狭野神社
天皇は生まれつきご聡明で武に富みご性格もしっかりした方でしたので、御年十五歳の時皇太子に即(つ)かれ、日向国で政治(まつりごと)をお取りになりました。しかし、当時は未だ全国統一がなされた時代ではなく、皇威(こうい)が全国に輝くというわけではありませんでした。
神武ご東遷(とうせん)
それから浪速(なにわ)の河内国草香邑(かわちのくにくさかのむら)に上陸されたのですが、生駒山(いこまやま)の要害(ようがい)に拠る賊酋長髄彦(ぞくしゅうながすねひこ)は天皇の軍を遮りなかなか降伏しなかったことから、遂に道を改め、海路紀伊国へ熊野路から攻め入られたのです。
此の間、皇兄五瀬命(いつせのみこと)は戦傷の結果遂に薨去(こうきょ)され、また熊野灘では海上暴風の為めに皇兄三毛入野命(みけいりぬのみこと)と稲飯命(いなひのみこと)のご遭難を始め幾多の将兵を失われるなど、苦戦艱難(かんなん)をなめさせられました。
此の間、皇兄五瀬命(いつせのみこと)は戦傷の結果遂に薨去(こうきょ)され、また熊野灘では海上暴風の為めに皇兄三毛入野命(みけいりぬのみこと)と稲飯命(いなひのみこと)のご遭難を始め幾多の将兵を失われるなど、苦戦艱難(かんなん)をなめさせられました。
苦難を経て大和へ
熊野に上陸すると天皇は、険しい山々を踏破され、高倉下(たかくらじ)や頭八咫烏(やたがらす)の忠勤によって遂に大和を平定遊ばされたのです。丁度日向をご出発になられて7年目の正月朔日(ついたち)、畝傍(うねび)の橿原(かしはら)に宮殿を建てられ「八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)と為(な)さむ」とおっしゃって、 第一代の天皇にご即位(そくい)遊ばされました。 ここに我が国の建国はめでたく成就されたのです。
そして即位後4年(BC657)には靈畤(まつりのにわ)を鳥見(とみ)の山中(やまのなか)に立てられ、皇祖天神(みおやのあまつかみ)を祀られ大孝(おやにしたがうこと)を申(の)べられました。
鳥見山中靈畤顕彰碑(とみのやまのなかのまつりのにわ)(桜井市)神武天皇ご即位後4年春2月鳥見の山中に靈畤を立て「大孝」を申べられた。