御日供講と宮童
宮﨑神宮には神さまにお供えする神饌を奉納いただく「御日供講」と、その神饌を神宮まで届ける「宮童(きゅうどう)」という二つの氏子組織があります。
「御日供講」は昭和13年に、「宮童」は同15年にそれぞれ発足し、爾来途絶えることなく今日までご奉仕いただいています。その構成員は、旧来の氏子を中心とする一般家庭(約120世帯)と宮崎市立大宮小学校に通学する児童さん達(約50人)です。
「御日供講」は昭和13年に、「宮童」は同15年にそれぞれ発足し、爾来途絶えることなく今日までご奉仕いただいています。その構成員は、旧来の氏子を中心とする一般家庭(約120世帯)と宮崎市立大宮小学校に通学する児童さん達(約50人)です。
日供献備奉仕(旧社報「美あかし」 昭和13年3月1日発刊より)
当神宮における毎朝の日供として御米神酒海魚等と共に大前に捧げ奉る野菜は従来高農其の他より購入して居ったのあるが、斯くては種々不便もあり又御日供の真の意味から見ても常に大稜威を蒙り
奉る民草より之を奉るべきであるので祈年祭(2月17日)の佳日に卜して神宮側より旧大宮各区長各位に此の旨図りたる所即座に快諾を得て翌18日より区民の赤誠に成る新鮮な野菜を兼備する事となった。即ちその方法としては旧大宮部落各区が順番に奉仕するもので当番区では各区長各位に於て奉仕者を定め献備品を取纏め置き毎夕刻神宮より係員を派して持参翌朝の日供に奉るものである。
要約すると、野菜は従来近くの宮崎高等農林学校等より購入していたが、それではあまりにも安直なやり方であるように思われた。そこで朝夕身近に接し親しんでいる神社の氏子がこれを奉るのが最も自然である。そこで神宮側より旧大宮村各区長に相談した所、即座に快諾を得、祈年祭の翌十八日より区民が野菜を献備することとなった。その方法は各区が順番に奉仕するもので、当番区の区長が奉仕者を定めて献備品を取り纏め置き、毎日夕刻に神職を派遣して持ち帰らせ、翌朝の御日供にお供えするものである。となります。
この中で注目すべきは「旧大宮」とか「旧氏子」という記述であります。宮﨑神宮を囲む六つの村が合併して大宮村が成立するのが明治22年の事で、降って大正13年に宮崎市に編入されています。旧大宮村の発展の歴史は、草深い日向国大宮村の一神社が、官幣大社宮﨑神宮として全国的に名前を知られるようになった発展の歴史と合致します。その間、境内拡張整備、植林、社殿その他諸施設の造営等を進めるにあたり、直接その影響下に置かれていた周辺地域住民の理解と協力は察して余りあります。住居の移転、工事現場の警備等を余儀なくされて苦労も多かったことでありましょう。同時に父祖以来の長きに亘り素朴な信仰で結ばれてきた産土の宮が、更に荘厳さを増しつつ立派なものへと変貌する事自体、大きな喜びであり誇りでもあったことでしょう。そうした意識は各々家々より各地域全体へと染み渡り、御日供・宮童をスムーズに形成するに至る共通の精神的基盤となった筈であります。たとえ宮崎市となっても「神武さま」と身近にある生活に変わりはなく、旧来の氏子としての自負は更に強固となり、それが神宮側にも十分に受け入れられて一種の尊称として「旧大宮」・「旧氏子」なる記述となって表れたのではないでしょうか。そこに戦前の風潮に強いられたものではなく、ごく自然に発足するに至った過程を思い浮かべるのであります。
組織が発足して、平成30年で以来80年の時が流れました。戦後は激変する社会の中で周辺地域の農地は次々に宅地化され家々が建ち並び街の景観は一変しました。元来、農家とその子弟を対象としてきただけに、人口や世帯数の増加に比例してその規模が大きくなることはありえません。逆に講員内の農業従事者の減少に伴い自然消滅をしていたとしても不思議ではありません。現在は当時と比較して御日供講員数は約3分の2となっていますが、同様の体制にて今日も変わらぬ活動が続けられています。各家々に根づいた当初よりの精神的基盤が、時代の変化に傾くことなく受け継がれてきた証しであり、その時々の当事者間における努力と苦労の賜物であります。