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第二章 敗戦、そして占領の時代(昭和二十年から二十六年)⑤
2015-09-17
神道指令出る
十二月十五日、全く突然といふ感じで「神道指令」なるものが発出された。これは宮崎神宮にとっては、全く寝耳に水の事件であった。社務日誌を見ると十二月二十六日の項に、普段に倍する大きい文字で「神社神道ハ国家ヨリ分離スベシ、伊勢神宮ヲ始メ官国弊社及以下神社(午後七時報道)マッカーサー司令部(十五日司令)発表」と見出しをつけ、つぎのやうに記してゐる。
昨夜ラヂオ報道ニテマッアーサー司令部ヨリ祭政分離ノ具体策ヲ日本政府ニ指令セシ旨発表セラレタリ、爾今ハ行政的ニハ御皇室及政府ト分離セラレタル立場ニ於テ、神宮神社人運営奉祀セラレル事トナレルモ、根底ヲ流レル神社精神ニ於テハ毫末モ異ナル所ナク、只管、皇室ノ弥栄ヲ祈念スルコト(参拝人員九八名)
とある。ところで神道指令の反応は実に素早く出て来た。この日(十六日)、県当局は「神道指令」の「全面的乃至部分的ニ、公ノ財源ニ依ツテ維持セラレタル役所、学校、機関、協会乃至建造物中ニ、神棚ソノ他国家神道ノ物的象徴トナル凡テノモノヲ設置スルコトヲ禁止スル。而シテ之ノモノヲ直ニ除去スルコトヲ命令スル」-条項を直ちに実施、県庁内に奉祀されてゐた神棚や市内の学校の神棚を一括して宮崎神宮に持って来た。宮崎神宮ではこれらを徴古館に納めたが、いよいよ来るべき時が来たのだ、との決意もまた、自然に固まらざるを得なかった。
十二月二十四日、米軍第二連隊大隊長宮崎地区司令官アンダーソン中佐、宮崎民政部長マスマン小佐が県警務課長ならびに外務課長の案内で宮崎神宮の見学に来宮した。また、同日、県神祇会支部が宮崎神宮社務所に置かれることとなった。これも神道指令の影響によるものであった。
神道指令が出て、東京では今後の神社界のあり方について最後の懸命な詰めがおこなはれてゐた。宮崎神宮でも、その結果を期待しながら、波瀾にみちた二十年を終へた。
暗い昭和二十一年
明けた昭和二十一年はまづ、元旦の「新日本建設ニ関スル詔書」と共にはじまった。この詔書に関してはすでに多くの論も発表されてをり、直接宮崎神宮史に触れるところとして論ずるまでもないので割愛させていただくが、国民にとって、とくに神道人にとって、きはめて大きな不安と驚きであったことは勿論である。事ほど左様に環境は厳しく変りつつあり、神社にとってそれはきはめて苦しい方向を指し示すものであった。宮崎神宮の正月三ヶ日の参拝者は、元旦七,一八三人、二日二,二八二人、三日一,一二八人の計一万一千五百九十三人。これは前年にくらべて九千五百四十六の減少、参拝者丁度半減しての正月であった。
これについて、その減少ぶりに目を向けて嘆く声もあれば、逆に、昨年から当年にかけての激動に伴ふ厳しい情勢の中にもかかはらず、前年の半数に及ぶ人々が宮崎神宮に参拝した、その信仰心にこそ着目すべきだとの声も出ることだらう。前年の項の社務日誌の引用にも、普段は一日の参拝者が百人を割る程のさびれやうとなった、宮崎神宮の姿がうかがはれる。御社頭は例年より淋しくはあっても、何かとお宮を守らうとする神職たちを応援する声なき声が正月三ヶ日で一万人もゐた-と私は解釈をしたい。
 
 
昭和二十年十二月十六日宮崎神宮社務日誌
宮﨑神宮
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