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慰霊
2018-04-11
去る4月10日、午前10時より当宮のお隣に鎮座される
宮崎県護国神社の例大祭が斎行されました。
 
 
例祭はその神社にとって最も重要な祭であり、縁ある日に斎行されます。
では、宮崎県護国神社例大祭は何故に4月10日か、
さらには何故に当宮境内に鎮座されているのかご存じでしょうか???
本日は創建からご紹介させていただきます。
【ご社殿の造営】
全国道府県の護国神社は殆ど明治維新の際に招魂社として創立され、戦前より慰霊の祭儀が行われていた。しかし、宮崎県は当時、小藩分立の状態等の事情もあり、県内全域の神霊を祀る招魂社は創立されていなかった。そこで県としては移設のできる小さな社殿を造り、毎年祭場を設営して県下全戦没者の招魂祭を執り行っていた。
 
 
昭和16年12月大東亜戦争の勃発により戦没者の数が急増し、護国の英霊に対する県民の感謝と敬揚の念が次第に深まった。そこで県民の要望に応えるため、当時の知事をはじめ各界の代表者が設立者となり、宮崎県護国神社建設奉賛会が組織された。昭和18年4月23日に内務大臣の許可を得て、鎮座地を宮崎市下北方の高台(現宮崎市立大宮中学校)に定め、同年5月10日に地鎮祭を斎行、建設工事に着手した。しかし、昭和20年3月17日には硫黄島が玉砕、ついに宮崎県下もアメリカの戦艦機の編成による空襲をうけ、建設は思うように進まなかった。連日の空襲により、同年5月31日を以て建設工事は中止となり、ついに昭和20年8月15日終戦を迎えた。終戦後は神道指令により、宮崎市内では学校等の神棚を宮崎神宮に集めて消却し、また護国神社においても創建奉賛会の解散を命じられ、当時の宮崎軍民生部長官マスマン少佐の厳命により建設途中の社殿は解体、土地を手放すこととなり、建設の放棄を余儀なくされた。
 
しかしその後、講和条約の発効を見るに至り護国神社再建の要望が澎湃として起こり、昭和28年4月に宮崎県護国神社政権奉賛会を組織して、県民の浄財を募り神社の再建に着手し、現在地に昭和30年3月竣工、同日鎮座祭を斎行し今日に至る。
【護国神社と宮崎神宮】
宮崎神宮の西の森に創建された当初は、宮崎神宮と一体の運営がなされていた。当時の宮崎神宮片岡宮司は「戦没された人々は、宮崎神宮をはじめ、それぞれの産土神社に武運長久を祈願して出征されたのであり、その神霊をお祀りする護国神社は、県下600余の神社を代表して宮崎神宮が宮司以下全員無報酬により護持する。大祭には県下の全神職が奉仕する精神を以て神社庁支部長も奉仕する。時代の変革あるも宮崎神宮の現存する限り護国神社の祭祀を欠かさないようにする。」との方針をもって維持運営されていた。
しかしその後、ご遺族を始め多くの県民から独立神社にふさわしい運営をとの願いにより、昭和47年4月より専任の職員を置くようになった。
 

【例大祭】
現在では県内神職の奉仕により、毎年4月9日に前夜祭併せて合祀祭、4月10日に例大祭が斎行されているが、本来の例祭日は3月10日であった。これは昭和30年3月10日に合祀鎮座祭が斎行されたことに由来する。しかしながら、宮崎県戦没者等慰霊奉賛会会長より、3月10日は例年定例の県議会開催中につき、慰霊奉賛会総裁(知事)、会長(県議会議長)の参列が困難であるとのことから、例祭日変更の申し出があった。また、県下の遺族にとっても、時期的に肌寒いため参集が困難であるという事情も考慮して、例祭日は昭和53年に4月10日と改められた。
 
お分かりいただけたでしょうか???
奇しくも昨日4月10日は、大宮中学校の入学式が開催されたようです。
中学生が元気に通われる現在地が、宮崎県護国神社と縁のある地であったことを
心の片隅にでも留めていただければ有難く存じます。
 
県内神職はもとより多くの県民の思いをもって、御霊の安らかならんことと、
宮崎県護国神社が末永く継承されますことを心からご祈念申し上げます。
宮﨑神宮
〒880-0053
宮崎県宮崎市神宮2丁目4-1
TEL.0985-27-4004
FAX.0985-27-4030
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