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神武の杜から①宮崎の宮
2014-07-07
当宮社報「養正」は年に2回発行されております。
その中の「シリーズ 神武の杜から」を掲載していきたいと思います。
『宮崎の宮』 画・平澤定人(宮崎神宮所蔵)
社務所の正面玄関に一枚の絵画が掲げられている。キャンバス三十号の油彩で、当神宮のご祭神神日本磐余彦天皇(第一代・神武天皇)が、皇兄である五瀬命(いつせのみこと)、三毛入野命(みけいりぬのみこと)、稲飯命(いなひのみこと)等と、ご東遷に向けた軍議を練っている様子が写実的に描かれている。
作者の平澤定次(雅号・定人)は、明治三十三年に東京都で生まれ、昭和五十八年、八十三歳で没している。専門は洋画であるが、日本神話をテーマに香取神宮や弥彦神社などにも作品を奉納した。太平洋美術会会員、評議員を務め、神社本庁の嘱託でもあったので、昭和四十三年には文部省(現文部科学省)、宮内庁、神社本庁後援による個展「神話のふるさと」を開催している。
この絵が制作されたのは昭和十八年。九月二十日に来宮、宮崎神宮に参籠し精進潔斎を重ねて丹精にこの大作を描き上げた。時あたかも大東亜戦争真っ只中、時局は風雲急を告げ、十月二十一日には明治神宮外苑陸上競技場で、東条英機首相出席の下「出陣学徒壮行会」が七万人を集めて挙行された。
当時の社報「みあかし」(昭和十八年十一月一日号)の表紙をこの大作が飾っていることから、この作品は僅か一月たらずで描き上げられたことになる。迫りくる自国の悲哀を前に、氏はこの絵に何を込めたのだろうか。氏の武運長久への祈りが、神武天皇軍議の写実とあいまって迫って来る、乾坤一擲の作品と言えよう。
作者の平澤定次(雅号・定人)は、明治三十三年に東京都で生まれ、昭和五十八年、八十三歳で没している。専門は洋画であるが、日本神話をテーマに香取神宮や弥彦神社などにも作品を奉納した。太平洋美術会会員、評議員を務め、神社本庁の嘱託でもあったので、昭和四十三年には文部省(現文部科学省)、宮内庁、神社本庁後援による個展「神話のふるさと」を開催している。
この絵が制作されたのは昭和十八年。九月二十日に来宮、宮崎神宮に参籠し精進潔斎を重ねて丹精にこの大作を描き上げた。時あたかも大東亜戦争真っ只中、時局は風雲急を告げ、十月二十一日には明治神宮外苑陸上競技場で、東条英機首相出席の下「出陣学徒壮行会」が七万人を集めて挙行された。
当時の社報「みあかし」(昭和十八年十一月一日号)の表紙をこの大作が飾っていることから、この作品は僅か一月たらずで描き上げられたことになる。迫りくる自国の悲哀を前に、氏はこの絵に何を込めたのだろうか。氏の武運長久への祈りが、神武天皇軍議の写実とあいまって迫って来る、乾坤一擲の作品と言えよう。
【註】この絵は徴古館(昭和十五年の皇紀二千六百年奉祝事業の一環として建設。昭和二十六年から同四十六年までは「県立博物館」として使用)の正面玄関に当初は展示されていたが、昭和六十年頃に徴古館の老朽化に伴って今の場所に移された。この絵の他に「鵜戸の宮居」「海幸山幸」「逢初川(あいそめがわ)」の奉納があり、参道横の休憩所に展示してある。
(A・K)
~平成21年2月11日号より~