ブログ
甲斐武教宮司さんのこと
2014-12-09
先月の事になりますが、児湯郡西米良村に赴きました。
宮崎市内より約1時間半。
11月23日の新嘗祭に際して、神武養正講社講員よりお供えの野菜類を受取るのが目的でしたが、道の途中西米良村越野尾に鎮座する兒原稲荷神社にお参りさせていただきました。(兒原稲荷神社についてはこちら)
宮崎神宮とは無縁と思われるかもしれませんが、宮崎神宮の先々代の甲斐武教(かいたけのり)宮司は、この兒原稲荷神社の社家にあたる方でした。
何かのご縁ですので、甲斐宮司の事を少々記したいと思います。
何かのご縁ですので、甲斐宮司の事を少々記したいと思います。
神武さま~「甲斐宮司さんを偲びて」より 著者黒岩龍彦(先代宮司)~
甲斐武教宮司は明治四十一年九月十四日に宮崎市宮田町にて生れられた。父上が縣立農業試験場に勤務されてゐたからである。児湯郡西米良村大字越野尾が本籍地である。代々越野尾に鎮座する児原稲荷神社の社家であった。長ずるに及んで宮崎市に出て縣立宮崎中学校に学ばれた。卒業するや上京して國學院大学神道部に学ばれ、学階「学正」を授与された。
昭和五年三月の事である。早く父上が逝去された故もあって、一切の望みを絶って、草深い田舎の神社の社掌になられた。
有為の才を抱いて、左顧右眄(さこうべん)することがなかったその姿勢が好ましい。それはかつて維新変革の黎明期にあたる文久三年八月一日の政変に参画して遂に捕らへられ、獄中に倒れられた甲斐右膳、大蔵の両烈士は実に児原稲荷神社の祠官であり、祖父になられる方々であった。敬神尊皇の至情は累代にわたり甲斐家に継承されてきて今日に及ぶところ誓願であった。その精神を胸中に秘めて、草奔の一祠官として、神明奉仕に倦むことのなかった明け暮れであったと想像される。
しかし?中の錐とおなじで次第に頭角を顕してこられる。早く昭和七年には社会教育委員となられ、十一年九月には禊会に参加。十二年八月には神職選抜講習会を受講。昭和十四年には内務省の第七回神職長期講習会を受講されてをり、神職としてのエリートコースを歩まれてゐることがわかる。
ところで昭和十四年八月一日付けの宮崎神宮の機関紙『みあかし』に「回顧一年」と題して甲斐宮司さんの文書が載ってゐる。それによると、昭和十三年の七月二日に下関を出発して、七月五日には北京に到着。内地神職として最初の、公式慰問旅行に参加されたのである。しかも七月七日は北京における寺内部隊の大慰霊祭に祭員として奉仕せよ、といふことであった。ところが北京に着いてみると話が変はって、若い神職連中は、もう一歩前進して帳家口において行はれる、蓮沼部隊の慰霊祭に奉仕することとなった。しかし内地から送った狩衣も笏も未到着で、止むを得ず、中国人の仕立屋に狩衣の絵を書いて示し、これを作らせたが、何とも珍妙な狩衣であった。しかし何とか間に合はせて、祭りを奉仕したと、書かれている。
炎熱灼くが如き大陸の第一線にあって辛苦を重ね猛暑を凌いでゐる兵士の事も思い至った時、自分も第一線に行って兵士と交代したい、慰霊祭を奉仕したいと、憑かれた様に種々の手続きをとり始めた。ところが一兵士から便りがあって、銃後の守りを固めて欲しい。そして私達の武運長久を一途に祈って欲しいとの便りを貰って思ひ止まったことが述べてある。いかにも若々しい青年の感情の流露があり、敬神尊皇の志を継承する人格が偲ばれるのである。
もともと性格は重厚にして寡黙、柔和なその応対は村民の深く信頼するところであったので、昭和三十年より三十八年の長期に亘り西米良村の村長に当選され、九年の長きに及んだことは特に記されて良い。
昭和三十八年三月神職身分二級上になられた。次いで昭和四十年二月十八日に宮崎神宮宮司に就任された。また護国神社の宮司と宮崎県神社庁長を兼ねられたのであった。爾来退任される昭和五十八年十一月迄の十八年間、宮崎神宮宮司として、また庁長として県神社界のために尽くされた。晩年は本庁の理事にもなられて斯界のために貢献されたのであった。
~中略~
更に宮崎神宮の車の祓い所や、授与所を改築された。また社務所を改築された。その後休憩所や、祈願殿の改築がなされ神社は面目を一新するに至ったのである。
宮崎県を訪れる高位顕官を始め、庶民に至るまで、その悉くが宮崎神宮に参拝する。その人達をして神社とはかくの如きものであるか、との印象を与へたいとは甲斐宮司さんの念願であった。参道をおほふ樹立の若葉は、市街地の騒音を遠ざけ、神域の尊厳と静謐を参拝者に与へる。ここに昔ながらの神社のたたずまひがあることを、参拝者感ずるであらう。
と記されおります。
甲斐武教宮司は明治四十一年九月十四日に宮崎市宮田町にて生れられた。父上が縣立農業試験場に勤務されてゐたからである。児湯郡西米良村大字越野尾が本籍地である。代々越野尾に鎮座する児原稲荷神社の社家であった。長ずるに及んで宮崎市に出て縣立宮崎中学校に学ばれた。卒業するや上京して國學院大学神道部に学ばれ、学階「学正」を授与された。
昭和五年三月の事である。早く父上が逝去された故もあって、一切の望みを絶って、草深い田舎の神社の社掌になられた。
有為の才を抱いて、左顧右眄(さこうべん)することがなかったその姿勢が好ましい。それはかつて維新変革の黎明期にあたる文久三年八月一日の政変に参画して遂に捕らへられ、獄中に倒れられた甲斐右膳、大蔵の両烈士は実に児原稲荷神社の祠官であり、祖父になられる方々であった。敬神尊皇の至情は累代にわたり甲斐家に継承されてきて今日に及ぶところ誓願であった。その精神を胸中に秘めて、草奔の一祠官として、神明奉仕に倦むことのなかった明け暮れであったと想像される。
しかし?中の錐とおなじで次第に頭角を顕してこられる。早く昭和七年には社会教育委員となられ、十一年九月には禊会に参加。十二年八月には神職選抜講習会を受講。昭和十四年には内務省の第七回神職長期講習会を受講されてをり、神職としてのエリートコースを歩まれてゐることがわかる。
ところで昭和十四年八月一日付けの宮崎神宮の機関紙『みあかし』に「回顧一年」と題して甲斐宮司さんの文書が載ってゐる。それによると、昭和十三年の七月二日に下関を出発して、七月五日には北京に到着。内地神職として最初の、公式慰問旅行に参加されたのである。しかも七月七日は北京における寺内部隊の大慰霊祭に祭員として奉仕せよ、といふことであった。ところが北京に着いてみると話が変はって、若い神職連中は、もう一歩前進して帳家口において行はれる、蓮沼部隊の慰霊祭に奉仕することとなった。しかし内地から送った狩衣も笏も未到着で、止むを得ず、中国人の仕立屋に狩衣の絵を書いて示し、これを作らせたが、何とも珍妙な狩衣であった。しかし何とか間に合はせて、祭りを奉仕したと、書かれている。
炎熱灼くが如き大陸の第一線にあって辛苦を重ね猛暑を凌いでゐる兵士の事も思い至った時、自分も第一線に行って兵士と交代したい、慰霊祭を奉仕したいと、憑かれた様に種々の手続きをとり始めた。ところが一兵士から便りがあって、銃後の守りを固めて欲しい。そして私達の武運長久を一途に祈って欲しいとの便りを貰って思ひ止まったことが述べてある。いかにも若々しい青年の感情の流露があり、敬神尊皇の志を継承する人格が偲ばれるのである。
もともと性格は重厚にして寡黙、柔和なその応対は村民の深く信頼するところであったので、昭和三十年より三十八年の長期に亘り西米良村の村長に当選され、九年の長きに及んだことは特に記されて良い。
昭和三十八年三月神職身分二級上になられた。次いで昭和四十年二月十八日に宮崎神宮宮司に就任された。また護国神社の宮司と宮崎県神社庁長を兼ねられたのであった。爾来退任される昭和五十八年十一月迄の十八年間、宮崎神宮宮司として、また庁長として県神社界のために尽くされた。晩年は本庁の理事にもなられて斯界のために貢献されたのであった。
~中略~
更に宮崎神宮の車の祓い所や、授与所を改築された。また社務所を改築された。その後休憩所や、祈願殿の改築がなされ神社は面目を一新するに至ったのである。
宮崎県を訪れる高位顕官を始め、庶民に至るまで、その悉くが宮崎神宮に参拝する。その人達をして神社とはかくの如きものであるか、との印象を与へたいとは甲斐宮司さんの念願であった。参道をおほふ樹立の若葉は、市街地の騒音を遠ざけ、神域の尊厳と静謐を参拝者に与へる。ここに昔ながらの神社のたたずまひがあることを、参拝者感ずるであらう。
と記されおります。
現在の宮崎神宮境内の景観は、おおよそ当時のままであります。
現在の宮崎神宮社務所(昭和58年竣工)
この他にも宮崎県神社庁庁舎建設(昭和四十七年九月二十五日竣工)、宮崎県護国神社の社務所建設(宮崎神宮の社務所を移築)、基金の募金、命日祭の斎行など英霊の鎮魂と顕彰を念願とされ発案をされたそうです。
本年より西米良村の講員より、新嘗祭の野菜をお供えいただくことになったことは、
甲斐宮司のお導きではないかと、今なお続く神武さまと甲斐宮司のご縁を感じる一日と
なりました。
甲斐宮司のお導きではないかと、今なお続く神武さまと甲斐宮司のご縁を感じる一日と
なりました。
甲斐宮司が神職身分特級となられた年に、この世に生を受けた私が今こうして当時と変わらぬ姿にある宮崎神宮で奉仕できること。
神武天皇様の御神徳はもちろんのこと、甲斐宮司をはじめ先人達に深く感謝するとともに、浅学非才の身ではございますが、後世に繋ぐべく神明奉仕に倦むことなく努めてまいりたいと思います。
神武天皇様の御神徳はもちろんのこと、甲斐宮司をはじめ先人達に深く感謝するとともに、浅学非才の身ではございますが、後世に繋ぐべく神明奉仕に倦むことなく努めてまいりたいと思います。
甲斐武教宮司略歴(抜粋)
昭和 三十年 西米良村長(昭和三十八年まで)
昭和三十八年 三月 神職身分二級上
昭和 四十年 二月 宮崎神宮宮司就任
昭和四十二年 六月 神職身分一級
昭和五十二年 三月 神職身分特級
昭和五十二年 五月 神社本庁理事(昭和五十五年五月辞任)
昭和五十八年十一月 宮崎神宮退職(名誉宮司就任)
平成 三年二月二十六日十三時三十一分 逝去(八十二歳)
昭和 三十年 西米良村長(昭和三十八年まで)
昭和三十八年 三月 神職身分二級上
昭和 四十年 二月 宮崎神宮宮司就任
昭和四十二年 六月 神職身分一級
昭和五十二年 三月 神職身分特級
昭和五十二年 五月 神社本庁理事(昭和五十五年五月辞任)
昭和五十八年十一月 宮崎神宮退職(名誉宮司就任)
平成 三年二月二十六日十三時三十一分 逝去(八十二歳)
昭和48年4月7日天皇皇后両陛下御参拝時