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大宮学校の記
2015-04-28
私事ですが、今春長男が小学校入学。
入学以来、毎朝元気に「いってきま~す!」
こちらも負けずに元気に「いってらっしゃ~い!」
見送られる側から見送る側へと変わり、嬉しそうに登校する長男の背中を見るのが
日課となっています。
日課となっています。
ところで、入学式の際に校庭にあった看板に目が止まりましたので、
ご紹介させていただきます。
大宮学校の記(読み下し)
大宮学校の記(読み下し)
大宮村(※附記1)は日向の中央で、宮崎町の北僅か半里ばかりのところにあり、そこには神武天皇を祭った神社(※附記2)がある。村民は約4,000人位で、大部分は農業を営んでいる。それでこれまで勉強することはあまり盛んでなかった。
明治25年になってはじめて仮校舎を設けることができたが、建物はせまく、生徒も僅かで言う程のもではなかった。(※附記3)
明治32年神武天皇祭(※附記4)が行われ、遥か遠方から数千人の人達が参拝におとずれた。然し神社のある場所が大宮村であることを知っている者はなかった。
日向の国は日本の祖国であり、大宮村はその村名こそ新しいが実際には日向の祖村である。しかるに天下にそのことを知っている者がいないというのは、何故であろうか。それは村民の教育程度が低くて、このことを天下に知らせる人物がいないことによるのではないだろうか。どうやら村民もそのことを後悔しているようである。これ以後子弟に勉強させる者が急に増加してきた。そのため校舎はたちまち満員となって、あとを入れることができなくなってしまった。
時の松本村長はこの有様に喜び、一方では心配し、有志の人々と相談して校舎を新築する計画をたて、県庁に願い出た。(※附記5)県庁はこれを許可したので、敷地を「神武さま」の北側のところにえらび、その年の12月に工事をはじめた。
明年松本村長がわけあって村長をやめたので、今の頼村長があとをついで、益々努力し、明治35年4月にできあがった。それはおよそ3年の月日と4,500円の費用がかかっている。(※附記6)
学校の敷地は1300余坪。建物は190坪。南向きで、用材は上棟のもので丈夫にできており、実用的である。華美でもなく、下品で見ぐるしいこともなく、村の学校としてふさわしく立派なものである。
今後この学校に学ぶ者は、右のように2人の村長や村の人達が、学校をつくるために大変な努力をなさったことを思って、ただ一心不乱に勉強し、村風(そんぷう)を改善することにつとめるためだけでなく、村名をあげ、この地が神武天皇をお祭りしてあるところであることを、広く天下に知らせることに努力すべきである。
もしも勉強をしたためかえって、軽薄になり働くことをきらい、楽することを願い、棚からぼた餅式のことを考えるようになったならば、教育の本意に反し、村民の名誉を傷つけることになるばかりではないだろうか。
明治35年7月
平成24年6月 大宮地域まちづくり推進委員会設置
明治25年になってはじめて仮校舎を設けることができたが、建物はせまく、生徒も僅かで言う程のもではなかった。(※附記3)
明治32年神武天皇祭(※附記4)が行われ、遥か遠方から数千人の人達が参拝におとずれた。然し神社のある場所が大宮村であることを知っている者はなかった。
日向の国は日本の祖国であり、大宮村はその村名こそ新しいが実際には日向の祖村である。しかるに天下にそのことを知っている者がいないというのは、何故であろうか。それは村民の教育程度が低くて、このことを天下に知らせる人物がいないことによるのではないだろうか。どうやら村民もそのことを後悔しているようである。これ以後子弟に勉強させる者が急に増加してきた。そのため校舎はたちまち満員となって、あとを入れることができなくなってしまった。
時の松本村長はこの有様に喜び、一方では心配し、有志の人々と相談して校舎を新築する計画をたて、県庁に願い出た。(※附記5)県庁はこれを許可したので、敷地を「神武さま」の北側のところにえらび、その年の12月に工事をはじめた。
明年松本村長がわけあって村長をやめたので、今の頼村長があとをついで、益々努力し、明治35年4月にできあがった。それはおよそ3年の月日と4,500円の費用がかかっている。(※附記6)
学校の敷地は1300余坪。建物は190坪。南向きで、用材は上棟のもので丈夫にできており、実用的である。華美でもなく、下品で見ぐるしいこともなく、村の学校としてふさわしく立派なものである。
今後この学校に学ぶ者は、右のように2人の村長や村の人達が、学校をつくるために大変な努力をなさったことを思って、ただ一心不乱に勉強し、村風(そんぷう)を改善することにつとめるためだけでなく、村名をあげ、この地が神武天皇をお祭りしてあるところであることを、広く天下に知らせることに努力すべきである。
もしも勉強をしたためかえって、軽薄になり働くことをきらい、楽することを願い、棚からぼた餅式のことを考えるようになったならば、教育の本意に反し、村民の名誉を傷つけることになるばかりではないだろうか。
明治35年7月
平成24年6月 大宮地域まちづくり推進委員会設置
ここから私なりに少し勉強しましたので、この文章に付け加えてきたいと思います。
附記1
明治22年、町村制実施により下北方村、大島村、村角村、南方村、池内村、花ヶ島町が合併し大宮村となります。役場は花ヶ島。現在でも御神幸祭(神武さま)に供奉する氏子青年は、この1町5村の人であります。下北方村に官幣大社宮崎宮が鎮座し、その著名なるが故に大宮村とつけたと記録されています。
明治22年、町村制実施により下北方村、大島村、村角村、南方村、池内村、花ヶ島町が合併し大宮村となります。役場は花ヶ島。現在でも御神幸祭(神武さま)に供奉する氏子青年は、この1町5村の人であります。下北方村に官幣大社宮崎宮が鎮座し、その著名なるが故に大宮村とつけたと記録されています。
附記2
ここので神武天皇を祭った神社とは、いうまでもなく現在の宮崎神宮であります。
明治前 神武天皇宮、神武天皇社と呼ばれる
明治 6年 宮崎神社とご改称。宮崎県の県社となる。(宮崎郡下北方村船塚鎮座)
明治 8年 国幣中社にご昇格
明治11年 宮崎宮とご改称
明治18年 官幣大社にご昇格
ここので神武天皇を祭った神社とは、いうまでもなく現在の宮崎神宮であります。
明治前 神武天皇宮、神武天皇社と呼ばれる
明治 6年 宮崎神社とご改称。宮崎県の県社となる。(宮崎郡下北方村船塚鎮座)
明治 8年 国幣中社にご昇格
明治11年 宮崎宮とご改称
明治18年 官幣大社にご昇格
明治19年 新社殿造営、神園開設
大正 2年 宮崎神宮とご改称
大正 2年 宮崎神宮とご改称
明治19年建立のご社殿は、狭野神社に移築されています。
上写真は、現在の狭野神社(西諸県郡高原町鎮座)
附記3
明治になり、大宮の各地で小学校が開設されました。
池内、南方・・・第46番池内村落小学
大島、江平、花ヶ島・・・第47番大嶋村落小学
下北方・・・第45番下北方小学(帝釈寺本堂)
その後、大嶋村落小学から江平小学、花ヶ島小学、村角小学が独立。
明治18年 第45番下北方小学、第47番大嶋村落小学、村角小学、第46番池内村落小学、江平小学の4校を合併し、下北村役場の仮屋(現在の大宮中学校の西側)を校舎として桜小学校を本校とし、村角が橘分校、池内が吾田分校となる。
明治25年 桜小学校は、大宮尋常小学校となる。
明治31年 村角の橘分教場、池内の吾田分教場を廃し、大宮尋常小学校に統合される。
明治になり、大宮の各地で小学校が開設されました。
池内、南方・・・第46番池内村落小学
大島、江平、花ヶ島・・・第47番大嶋村落小学
下北方・・・第45番下北方小学(帝釈寺本堂)
その後、大嶋村落小学から江平小学、花ヶ島小学、村角小学が独立。
明治18年 第45番下北方小学、第47番大嶋村落小学、村角小学、第46番池内村落小学、江平小学の4校を合併し、下北村役場の仮屋(現在の大宮中学校の西側)を校舎として桜小学校を本校とし、村角が橘分校、池内が吾田分校となる。
明治25年 桜小学校は、大宮尋常小学校となる。
明治31年 村角の橘分教場、池内の吾田分教場を廃し、大宮尋常小学校に統合される。
附記4
ここでの神武天皇祭は、神武天皇ご降誕2,610年に合わせて斎行された「神武天皇御降誕紀念大祭」のことであり、神殿幣殿拝所社務所等新築し、神苑を拡張し徴古館を設けること、県社狭野神社の社殿拝所社務所等を改造し、事業完了後に奉告大祭を挙行することでありました。
ここでの神武天皇祭は、神武天皇ご降誕2,610年に合わせて斎行された「神武天皇御降誕紀念大祭」のことであり、神殿幣殿拝所社務所等新築し、神苑を拡張し徴古館を設けること、県社狭野神社の社殿拝所社務所等を改造し、事業完了後に奉告大祭を挙行することでありました。
附記5
建屋が狭く、その位置が西側に偏っており通学上、不便であるから「宮崎郡下北方村字新地」(現在の大宮小学校)へ校舎を移転する上申書が県知事に提出されました。
建屋が狭く、その位置が西側に偏っており通学上、不便であるから「宮崎郡下北方村字新地」(現在の大宮小学校)へ校舎を移転する上申書が県知事に提出されました。
附記6
新校舎が完成にあたり、盛大な祝賀式がありました。
これを記念し、石碑が建てられました。
新校舎が完成にあたり、盛大な祝賀式がありました。
これを記念し、石碑が建てられました。
その後、大宮小学校は以下のように変遷致しました。
大正3年 宮崎師範学校の代用附属小学校となり、現在の校章が制定される
昭和46年 平和が丘団地に池内小学校が開設され、約300名が転出
昭和51年 東大宮小学校が開設され、約600名が転出
昭和56年 住吉南小学校が開設され、約100名が転出
大正3年 宮崎師範学校の代用附属小学校となり、現在の校章が制定される
昭和46年 平和が丘団地に池内小学校が開設され、約300名が転出
昭和51年 東大宮小学校が開設され、約600名が転出
昭和56年 住吉南小学校が開設され、約100名が転出
と、小学校、旧大宮村、宮崎神宮の歴史を振り返ってみました。
・参考資料 「子どもに伝えようまちの歴史」/大宮地域まちづくり推進委員会
・参考資料 「子どもに伝えようまちの歴史」/大宮地域まちづくり推進委員会
さらに、入学式で流れた校歌。
大宮小学校校歌
一 みどりの丘 平和の塔 一面の 菜の花ばたけ
風はかおり 心ははずむ 我らの学舎 大宮小学
二 あかるい空 神武の森 一面の 黄金の穂波
雲はひかり 心はおどる 我らの学舎 大宮小学
三 ふるい歴史 若い希望 手をつなぎ まことを求め
誇り高く 我らは進む 我らの学舎 大宮小学
この歌詞から当時の様子が伺えます。
雲はひかり 心はおどる 我らの学舎 大宮小学
三 ふるい歴史 若い希望 手をつなぎ まことを求め
誇り高く 我らは進む 我らの学舎 大宮小学
この歌詞から当時の様子が伺えます。
しかしながら、現在では田畑は減少し、住宅、マンション等が建ち並び、その様子は
一変しています。(上写真は昭和37年大宮小周辺)
その中で変わらぬものの一つに、宮崎神宮があります。
旧大宮村の発展の歴史は、草深い日向国大宮村の一神社が、官幣大社宮崎神宮として全国的に名前を知られるようになった発展の歴史と合致します。その間、境内拡張整備、植林、社殿その他諸施設の造営等を進めるにあたり、直接その影響下に置かれていた周辺地域住民の理解と協力は察して余りあります。住居の移転、工事現場の警備等を余儀なくされて苦労も多かったことでありましょう。同時に父祖以来の長きに亘り素朴な信仰で結ばれてきた産土の宮が、更に荘厳さを増しつつ立派なものへと変貌する事自体、大きな喜びであり誇りでもあったことと思われます。
現在でも様々な形で、地域はもとより多くの人々に支えられています。
今後もこの繋がりをより強固なものにし、地域住民と共にさらなる発展への一助と
なれますよう、微力を尽くしていきたいと思います。
今後もこの繋がりをより強固なものにし、地域住民と共にさらなる発展への一助と
なれますよう、微力を尽くしていきたいと思います。
長男入学に際し、色々と考えさせれました・・・