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第一章 二千六百年がすぎて(昭和十六年から十九年までの時代)①
2015-05-07
本年は大東亜戦争終結七十年の節目の年にあたります。
当時の宮崎神宮の状況が書き記されていますので、ご紹介したいと思います。
「神武天皇論 宮崎神宮史」(昭和五十九年十月二十六日 第一版発行)
第四扁 怒濤の中を
紀元二千六百年祭以降の宮崎神宮 宮崎神宮名誉宮司(当時) 甲斐武教著
昭和十六年から十九年にいたる時代は、まさに国運を賭しての時代であった。昭和十五年の二千六百年祭あたりから、戦争の拡大と長期化は国民生活を脅し食糧難からくる配給制が実施され、日本の戦時下における統制経済化は急速にすすめられ、日本中に軍靴の足音が日に日に高まってくるような時代となってきた。昭和十五年あらゆるものがつぎつぎに配給制に移行、八月からはまづ東京で、そして次第に各地で食堂や料理店での米飯の提供が禁止され、国民精神総動員本部が発足した。「ぜいたくは敵だ」などのスローガンが巷にあふれた。八月には民政党が解党をしたのを最後に全政党が解党となり、九月には日独伊三国同盟がベルリンで調印され、十月には大政翼賛会が発会した。
このやうなあとにつづいた昭和十六年、宮崎神宮にも戦時下のきびしい雰囲気がいよいよつよまってくる。二月一日には市が主催する「皇軍武運長久祈願祭」がおこなはれたり、四月三日の恒例の「神武天皇祭」には、在郷軍人一千余人が市中行進をして宮崎神宮に参拝、祈願祭ののち萬歳三唱をして解散する。また、青木宮崎市長以下の市役所全吏員と国民学校全職員が宮崎神宮を参拝したのち八紘の基柱前へ隊伍を組んで行進、東方遙拝をおこなってゐる。祭典もこの時代の色彩をつよく反映、志願兵入営奉告祭とか勤労報国隊結成奉告祭とか、国防のための市民組織の結団奉告祭などが相ついで御社前でおこなはれるやうになった。十一月二十日には摂社である皇宮神社の高台に「皇軍発祥の地」の記念碑建立の着工式がおこなはれた。
そうやうな中で、日本は九月北部仏印(北ベトナム)の武力進駐を強行、必然的に米英の反撥となり、石油と鉄屑の日本への輸出を全面的に禁示する措置に出た。戦略的物資を米英陣営から仰がねばならぬ日本の悲劇であった。日本は大東亜戦争へ突入せざるを得ない状況へと追ひ込まれていった。そして十二月八日、日本時間午前二時、日本軍マレー半島に上陸開始。同じ三時には、ハワイ真珠湾攻撃開始。米英両国に対しての宣戦の詔書が渙発されていよいよ大東亜戦争へ突入した。又同日午前五時、「帝国陸海軍は今八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」とのラヂオニュースは忽ちにして全国を興奮のルツボと化した。全国の各神社で一斉に先勝祈願祭がおこなはれたが宮崎神宮でも、エプロン姿の国防婦人会員や学生、団体、一般市民などの参拝がひきもきらずつづいた。
真珠湾での大戦果、十二月十日の日本軍グアム占領、フィリピン北部に上陸、マレー沖でのイギリス船艦撃沈、香港の英軍降伏と、戦況活?のままに十六年は暮れた。宮崎ではこれまでの宮崎神宮祭祀協賛会が十二月十六日より市が強力にテコ入れして宮崎市宮崎神宮祭祀奉賛会へと拡大強化されたりもあった。
続く・・・