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二千六百年がすぎて(昭和十六年から十九年までの時代)②
2015-05-18
つづく昭和十七年は元旦から戦勝祈願の初詣などで御社頭はまことににぎやかだった。大政翼賛会の市内にまく「進め一億火の玉だ」、「見たか知ったかこの力」「勝って兜の緒を締めよ」などのビラがいやがうへにも戦意を昂揚した。盛大に紀元節を奉祝した直後の二月十五日にはシンガポール陥落のニュースが伝はり、全国の街で提灯行列がおこなはれるなど、熱気さめやらぬ十六日には陥落祝賀の祭典がおこなはれた。五月七日にはコレヒドール島要塞の陥落の報もつたはった。人人は戦勝に酔ひ、そして神宮へ参拝した。当時の社務日誌はどうしたことか終戦直後に紛失、いまだに発見されてゐないので、細かいことはわかりかねるが(占領軍をおそれて処分されたものと推測されてゐる)、宮崎市史や、当時の職員の思ひ出、新聞などから社頭の盛況はうかがひ知ることができる。
しかし戦局は、十七年の夏になるとすでに逆転の気配をみせてゐた。国民には知らされてゐなかったが六月のミッドウェー海戦では日本は四空母を失ひ、八月にはソロモン海戦でも不利な戦ひを強ひられてゐるのである。
十一月十七日、宮崎神宮では宮崎神宮の神札頒布式がおこなはれた。御神札を奉斎して銃後の護りを固めようと市内全戸に配布されたのである。総力をあげて戦争に突入した日本では、十月からはすべての生活必需品の配給が町内会、部落会、隣組を通じて行はれるやうになり国民の経済生活は日に日に苦しくなっていった。そしてすでに戦況の変化は起ってゐたのだが、それをしらない氏子たちには日本は絶対に敗けないのだとの確信がつよくその心理を支配してゐた。十二月八日、大東亜戦争一周年記念祈願祭が三万人の市民が参加して盛大におこなはれた。ちょうどこの日、ニューギニアのバサブアで日本軍が玉砕し、次いで大晦にはガダルカナルからの撤退が大本営で決定されるなど、悲しい事態が相次いでおこったことなどは、戦争の勝利に酔ひ痴れてゐた国民は知るよしもなかった。
昭和十八年、新しい年があけた。この年も昨年同様、市が主催しての四方拝からはじまったが、変ったことといへば、市民が皆、女性はモンペ姿、男性は国民服にゲートルといふ戦闘スタイルに徐々に統一されていったことであった。ジャズをはじめ米英音楽の演奏禁止、英米用語の使用禁止、金属類の回収などが進み、海軍が急拠地元民の勤労奉仕により赤江飛行場の建設工事をはじめるなど、軍事一色の毎日であった。市内では市民の耐寒行軍がおこなはれたりもしてゐる。又、六月一日の閣議で学徒戦時動員体制確立要綱が決定され、大学予科、高等学校高等科、中学校の修業年限が一年繰り上げられるなどの措置が実施され、更に十月には在学徴集延期臨時特例が公布され所謂学徒出陣となり、戦線が拡大し兵員その他が不足してゐることがうかがはれた。
戦局不利のニュースは依然、全く発表されなかったが、二月一日には日本軍がガダルカナル島撤退放棄、二日にはスターリングラードで独軍が降伏するなど敗色がいよいよ濃くなってきた。五月にはアッツ島も玉砕した。多数の宮崎市民が出征した。また、報国隊員として北九州の炭坑や軍関係の兵器工場などに動員されて行く人も多かった。そのやうな中、市内下北方で宮崎県護国神社の起工式がおこなはれた。四月二十二日にかねてより提出してゐた申請が許可されて五月に地鎮祭ののち、十一月二十日におこなはれたもの。関係者多数が参列、一刻も早い工事の完成を祈った。
宮崎神宮
〒880-0053
宮崎県宮崎市神宮2丁目4-1
TEL.0985-27-4004
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