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二千六百年がすぎて(昭和十六年から十九年までの時代)③
2015-06-18
明けて十九年、戦局の不利は急速に市民の間にも感ぜられるやうになってゐた。弾丸や兵器をつくる金属が足りないと、ナベ・カマまで供出してゐた市民たちは、神社の銅像や金属鳥居、鉄道のレールまでが外されて行くのを見て、本能的にそれを感じたこともあるだらう。あるいは戦争標語も、段々追いつめられた「進め一億火の玉だ」などといった厳しいものが中心になり、「決戦料理」などといって、野草を常としようなどの運動がはじまったりする。本土決戦などといふ言葉がささやかれはじめてゐた。
一月十五日、例年のごとく市が宮崎神宮で武運長久祈願祭をおこなってから三日目の一月十八日、内閣は緊急国民勤労動員方策要綱を決定発表した。いよいよ全国民をあげて一億総当りの戦闘体制である。これにつづき翌十九日には十四歳から二十五歳の未婚婦人を結集して結成された女子挺身隊を大動員して、軍需工場にさしむけることなども決められた。村でも町でも、いままでは男子が働いてゐた職場が、男子の出征によりつぎつぎに女子に替るやうな状況になっていった。
夏になると、沖縄に南西諸島から、集団疎開の子供たちが宮崎にもつぎつぎに到着するやうになる。八月には沖縄よりの疎開船が敵潜水艦により撃沈され、学童七百人を含む千五百人が死亡するといふいたましい事故などもあった。九月八日より二十八日まで、宮崎神宮では三週間連続の「戦勝祈願祭」をとりおこなった。市や県、軍関係者なども参列しての盛大なまつりであったが、二年前の祈願祭にくらべると、悲壮感が漂ふのも、止むを得ないところであった。
秋になると、市役所に「防空課」が新設され(十一月二十一日付)、早速市内百三十二ヶ所に空襲用の「公共防空壕」の建設工事がはじまった。東京がB29で焼野が原と化し、北九州もやられた、このやうなニュースが相次いで流れてくるやうになった。早くも一部の宮崎市民は、市内を避けて、山間の奥地に移住を開始したりし始めた。宮崎神宮も、空襲に備へて迷彩をほどこし、職員たちも、防空演習などをおこなったりしてゐた。遠くの方ではじまった戦も、いつか身近のものになりつつあった。「一億玉砕」などの言葉が使はれるやうになってきた。
なほ昭和十六年から十九年までの皇族参拝はつぎの通りであった。
○昭和十六年 
七月二十二日 久邇宮殿下御参拝
○昭和十七年
九月五日   三笠宮殿下御参拝、後皇宮屋、八紘台、西都原を御巡視
○昭和十八年
二月十七日  東久邇宮稔彦殿下御参拝
六月二十八日 久邇宮多嘉王妃静子殿下御参拝
○昭和十九年
三月十七日  朝香宮孚彦王殿下御参拝
三月三十一日 朝香宮鳩彦王殿下御参拝
 
昭和十九年年頭の宮崎神宮ご社頭
宮崎神宮
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