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第二章 敗戦、そして占領の時代(昭和二十年から二十六年)①
2015-07-27
昭和二十年、戦局いよいよ悪化
戦局はますます深刻化していき、それにつれて宮崎神宮にも苦難の時機がはじまってきた。昭和二十年に入ると二月には米軍が硫黄島に上陸を開始し、三月には同島の日本守備隊が玉砕する。さらに六月には沖縄本土が猛烈な米軍の攻撃により占領され、八月には広島・長崎に原子爆弾がおとされて、やがて八月十五日、日本は陛下の御聖断により終戦を迎へるといふ、まさに日本歴史上はじめてともいふべき大転換、変転の時を迎へる。その二十年の正月には、それでもまだ例年の如く期待をもって新しき年を迎へたのだが、米軍勢力が徐々に日本に近接してきてゐるとの事実が当地にも三月には示され、以後宮崎は終戦まで、敵制空権下の爆撃といふ混乱の時期を迎へることになる。
 
三月十八日の空襲
宮崎県人にとって大変な驚きのキッカケとなったのは三月十八日であった。この日、米機動部隊艦載機(グラマン)のべ一四〇〇機が突然南九州に来襲、そのうち一部は宮崎県を目標地点に定め、赤江飛行場(現在の宮崎空港)、新田原陸軍飛行場などの軍事施設のほか富島町(日向市)、都城市、油津町(日南市)などが空襲をうけた。これが宮崎県がうけたはじめての空襲だったが、幸にして宮崎市および宮崎神宮には被害はなかった。しかしこの日、神宮でもこの空襲に備へて、全職員が各部署において終日待機して万一に備へた。
この三月の空襲のうち、米軍機による空襲は日に日に頻繁に、また激しくなっていった。宮崎神宮での祭典奉仕は、このやうな中でも何としてでも規則通りに奉仕しつづけたいとし全員一致の努力をしたのだが、祭儀そのものは励行されたものの、時間などは空襲などにより必ずしも予定通りには行かず、大幅に祭典開始時刻が遅れる事態も相次ぐやうになってきた。宮崎市にも、度々の空襲がはじまるやうな状態の中で、県内は近々米軍が宮崎海岸からいよいよ本土上陸作戦を決行するらしいとの噂がひろまり、県民の驚きはいよいよ深まった。軍関係でも海岸警備体制を固める気配に、緊張感はいよいよたかまり、最後の事態に宮崎神宮としてどう対処するかだ大きな問題として討議されるやうになった。

御料品の避難・御神体の動座
宮崎神宮の対策はとりあへず、御料品を安全なところにお移しし、境内の空襲に対する対応策を講ずるとともに、御本殿後方に地下の御神体奉安所をつくり、祭典はあくまで従来通りつづけようといふものであった。計画はまづ、御料品の疎開計画から着手、結局疎開先は当時、小職が奉仕してゐた児湯郡の児原稲荷神社とすることで決定。再三の打合せの結果、まづその第一回の移動が四月三十日午前七時、菅原主典同行のもと貨物自動車で神社を出発疎開した。第二回は七月六日午前五時、前回同様の手続をもっておこなはれた。
ところで御神体御動座用の防空壕建設は御本殿真裏に定められ、工事には軍が協力することとなった。いかなる非常時とはいへ、御神体を地下にお移しすることはきはめて畏れ多いことである。しかし戦局を考へた末の決断であった。工事は五月十日、御神座の地鎮祭を斎行後、急ピッチでおこなはれ、十六日には竣功した。この地下奉安所の建設工事はせめて六月十四日の御衣祭(おんぞさい)を、御本殿へ鎮まります御神体の御前において斎行したい-との願ひもこめられた日程であった。ところがその日は朝から敵機の相つぐ来襲で、つひに祭典の奉仕が終日不可能となるといふ厳しい状況となり、祭典は後日、職員のみでささやかにおこなはれたが、そのやうなきびしい状況の中での止むを得ぬ、また緊迫した御動座であった。
 
 
現在の御本殿裏石垣
宮崎神宮
〒880-0053
宮崎県宮崎市神宮2丁目4-1
TEL.0985-27-4004
FAX.0985-27-4030
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